鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
STAND UP!!代表/浜松医科大学医学部6年生・松井基浩さん
STAND UP!!副代表/日本テレビ報道局社会部記者・鈴木美穂さん VS
 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2010年9月
更新:2013年9月

  

『STAND UP!!』を立ち上げた若きがん患者の志とエネルギー
全国の若年性がん患者さんを支える土台になりたい

松井基浩さん

まつい もとひろ
1986年大阪府生まれ。2001年神奈川県桐蔭学園高校1年10月、悪性リンパ腫を発症、国立がん研究センター中央病院に入院。約8カ月間の治療後、高校2年5月復学。高校3年12月まで抗がん剤治療と外来治療で通院。2005年浜松医科大学医学部入学。現在同6年生

鈴木美穂さん

すずき みほ
1983年東京生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。2006年日本テレビに入社、報道局に配属。2008年乳がん告知。手術、抗がん剤、放射線治療を経て、ホルモン治療中。現在は、社会部記者として取材や編集に駆け回る傍ら、若年性がん患者団体「STAND UP!!」の副代表を務める

鎌田實さん

かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

高校1年生の秋に悪性リンパ腫を発症

鎌田 おふたりは若年性がん患者さんですが、若年性がん患者さんのためのフリーペーパー『STAND UP!!』を創刊されました。松井君が代表で、鈴木さんが副代表。まず、松井君は悪性リンパ腫だということですが、病気の経過からうかがいたいと思います。

松井 高校1年の秋頃に、少しずつ咳や息苦しさの症状が出てきました。親は「病院へ行け。病院へ行け」と言いましたが、僕は病気ではないと思っていましたから、病院には行きませんでした。ところが、体育の授業でマラソンを走ったとき、全然走れなくて、これはおかしいと思いました。

鎌田 それまではスポーツマンだったの?

松井 僕はテニスをやっていて、マラソンも速いほうでした。しかし、マラソンが走れなくて、学校の帰りに病院に寄ったところ、すぐに親を呼べということになったわけです。

鎌田 ドクターは何を診て、親を呼ぶことにしたんだろう。

松井 最初、徹底的に問診を受け、疲れるとか、体重が減っているとか、息苦しさがあることを伝えました。その後、レントゲンを撮ってもらうと、陰影がはっきりと写っていました。

鎌田 縦隔のリンパ腺が腫れていた。

松井 そうです。

鎌田 表在性のリンパ腺は腫れてなかった?

松井 腫れてなかったです。

鎌田 じゃあ、どこかにぐりぐりができている、ということではなかったわけだ。胸のレントゲンを診て先生は慌てたんだ。

松井 そうですね。僕自身は、レントゲンを撮って安静にしていただけなんですが、その時点で不安は少しありました。ただ、そんな大きな病気だという意識は全然ありませんでした。

鎌田 その後、国立がん研究センターを紹介され、そこで悪性リンパ腫の告知をされた。

松井 がんセンターを紹介された時点で、がんだと覚悟しました。がんセンターの最初の段階で正式な病名を告知され、その病気の治療法や治療実績など、こと細かに説明していただき、「治してあげる」とまで言っていただきました。

鎌田 ステージは?

松井 縦隔にあったので、3でした。

鎌田 縦隔だけだったので、収まったんだね。告知は親と一緒でしたか。

松井 最初の病院では、親は告知されたようですが、僕には告知されませんでした。

鎌田 告知は早いほうがよかったと思いますか。

松井 どの段階で告知されたとしても、それを受け入れるまでに、時間がかかります。早く覚悟を決め、前向きに治療に向かうためには、早く告知していただいたほうがいいと思います。

鎌田 子どもでも早く告知したほうがいい?

松井 僕が入った病室は小児病棟でしたが、みんな病気をしっかり受け止めていました。そういう環境に置かれれば、子どもでもがんとしっかり向き合えます。告知すべきだと思います。

がん闘病中の子どもに励まされて医師を志す

鎌田 高校1年生でがんになったわけだから、勉強が大変だったでしょう。

松井 僕の高校は神奈川県下でも有名な進学校でしたから、1日でも休むと勉強に遅れると不安になるような学校でした。それが長期間休むことになって、ものすごく不安でした。先生や友人たちにフォローしてもらって、何とか自分で勉強をしていたのですが、学校に戻ったときには、行こうとした塾の入塾試験で何回も足切りされ、4回目でやっと受かったというぐらい、勉強が遅れていました。
その頃は抗がん剤の副作用が出てつらい時期で、髪の毛も抜けましたから、学校へ行っても、どうして自分だけつらい思いをしなければならないのかと、自暴自棄な気持ちになることもありました。家で親に当たり散らして、家族崩壊寸前の状態でした。そういうときに、「がんばれ」と励ましてくれたのが、まだ入院中の友人たちでした。友人たちは自分の夢を語りながら、僕を励ましてくれました。それを聞き、僕は闘病がつらくとも、夢を追うことができる幸せを感じたのです。それから僕は、医師を目指してがむしゃらに努力するようになったわけです。

鎌田 医師になろうと思ったのは?

松井 一緒に入院している子どもたちが、とても明るかったのです。小さな子が僕を励ましてくれました。病気と前向きに闘っている子どもたちに支えられていると感じたとき、僕はそういう子どもたちの支えになれる医師になりたいと思ったのです。

鎌田 その選択は間違っていなかった?

松井 あのときは、患者さんのいちばん力になれるのは治療を行う医師だ、という思いがありました。しかし今は、治療面はもちろん大事ですが、病気は患者さん自身が治すものであり、医師は患者さんの気持ちがわかることが大切だと思っています。僕はがんを経験していますから、今回のような活動を含めて、がん患者さんに治療面プラスαで力になれたらと思っています。

鎌田 今、何年生?

松井 6年生です。来年春には浜松の聖隷三方原病院で研修に入るというのが第1希望です。

鎌田 これから国家試験に向けてがんばらないとね。

「乳がんは9割方ない」が一転して「がんでした」

鎌田 鈴木さんのがんの経緯はどうだったんですか。

鈴木 私は乳がんですが、2008年3月に、自分でしこりを見つけて、会社の診療所に行ったのが最初です。触診していただきましたが、「大丈夫ですよ。生理前には誰でもこれくらい張ることはあります。1カ月もすれば消えると思いますよ」と言われました。しかし、先生も私の心配そうな表情を見て、「安心するためにも検査をしましょう」と言われ、1カ月後に紹介された病院で検査を受けたのです。そのときも、「乳がんは9割方ないと思っていいでしょう。乳腺症の可能性が高いですね」と言われました。

鎌田 そのとき何歳ですか。

鈴木 24歳です。

鎌田 そうか。若いから、先生もそう言うかもなぁ。

鈴木 そのとき、触診、マンモグラフィ、CT、針生検をやりました。「大丈夫だと思いますが、1週間後に、取材の帰りにでも、寄ってください。結果をお知らせしますから」と言われました。1週間後、病院に立ち寄って、「大丈夫でした?」と訊くと、先生がいきなりレントゲン写真を貼り出して、「悪いものが写っていました。がんでした」。

鎌田 それはショックでしょう。

鈴木 愕然として、身体がふらふらしました。「2時間後に検査をしますから、食事をしてから戻ってきてください」と言われたのですが……。

鎌田 食べられない。

鈴木 がんと言われ、食事をして2時間後に戻ってくるなんて、無理ですよ(笑)。すぐに母と彼と会社に電話をしました。母親は仕事をしていたのですが、すぐにタクシーで駆けつけてくれました。タクシーから降りるとき、小銭をばらまいてしまったのですが、そのまま走って病院の玄関を入ろうとしたほど動揺していました(笑)。ふたりで「どうしよう、どうしよう」と言いながら、午後の検査を受けました。

鎌田 その間、泣かなかった?

鈴木 泣くもなにも、呆然として、涙も出ないという感じでした。忘れもしない、2008年5月2日のことでした。

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