第一回 闘病記大賞 佳作 受賞作品
「夫婦でがん」
肝がんと闘う夫に寄り添ってきた妻にも乳がんが
「希望」のズボン
ドラマみたいに目の前の心電図の画面の波線がツーンと一本の線になって、
「午前1時16分、ご主人の死亡を確認しました」
「これで終わりなの……?」
主人が亡くなってから3年。主人の病気に関するいろいろな物をそのまま引き出しの奥に仕舞って封印していました。3年が経ち、今やっとその引き出しを開けることが出来るようになりました。
その時、ちゃんと読まなかった、というより読めなかった主人の死亡診断書。
ア、入院(手術)の原因となった傷病名 肝細胞癌
イ、アの原因 B型肝炎
ウ、合併症、縫合不全、腹腔内膿瘍、術後肝不全、多発肝転移再発
と書かれてありました。
主人は平成14年、57歳で肝細胞がん宣告を受け、開腹手術をして4年半何事もなく過ごした。
「もうじき5年が来るなぁ。5年経てば安心かなぁ?」と心の隅っこで、ちらっと思っていた矢先に再発がわかりました。
平成18年からの再発治療は、肝動脈塞栓療法を10回とラジオ波焼灼療法を1回しました。そして平成22年3月30日に奈良の大学病院で、これ以上手術も治療も出来ないと言われ、セカンドオピニオンで紹介された大阪の病院に、12回目の入院。奇しくもその日は38回目の結婚記念日でした。
そして4月1日エイプリルフールの朝、主人は点滴の棒を引っ張って、バイバイと手を振って、歩いて手術室に入って行きました。
「悪夢から覚めたら嘘でした」ってことにならないかなと何度思ったことでしょう。13時間かかった手術も無事終わり、順調に回復しているようでした。
私は手術の前の日から病院近くのビジネスホテルに泊まっていて、しばらくそこから病院に通うことにしました。
しかし、夜一人でいると、誰かがドアを叩く音に脅えた。あとで分かったことですが、隣の部屋でお風呂を排水すると、私の部屋の排水溝の蓋がカタカタと音をたて鳴っていただけでした。しかし、ちょっとした音にも脅えて、不安が襲ってきて眠ることが出来なくなってきたので、4日目からは定期券を買って、奈良から大阪の主人の病院まで通うことに。時間はかかりますが、長男がいたので遅くなったときは駅まで迎えに来てもらったり、病院での出来事を話したりできたので、精神的にずいぶん助けられました。
ICU室の面会時間は厳しく、午前11時から30分間と午後5時からの30分間の2回です。奈良へ帰るのも大変なので、午前の面会が終わってから午後の面会時間までは、病院の外来待合室で本を読んだり、ボランティアの人がしている医学書や治療法、体験談の本の貸し出しがあり、パソコンで検索が出来る患者情報室という所へいって時間を潰していました。
そして23日後に十二指腸切除部分のつなぎ目で菌が繁殖して膿が溜り、抗生物質も効かなくなり、再手術でストーマ(人工肛門)を付けました。もうそれからは痛みに弱い主人にとってつらくいやなことばかりが起きました。
一般病室にはほとんど戻ることなく、手術室横のICU室か看護詰所横のHCU室にいました。6月8日の主人の誕生日前に主人が、痩せたのでゴソゴソだから、退院する時にはくズボンを買って来てほしいと言い出しました。
その時はまだ退院どころかまだまだ厳しい状況だったのですが、言い出したら聞かなくて、「今は痩せていて、もう少し太るかもしれないからそれからにしましょう」と言っても、どうしても欲しいと子供のように言うので、「明日買って来ます」と言うと、今度は「お前はすぐ明日とか、後からと言う」と言って怖い顔で手を振り上げて怒りました。
今までこんなことを言ったことがない人だったのですが、病気がこんなわがままを言わすのだと思い、近くの店でお誕生日プレゼントにズボンと色を合わせてポロシャツも買いました。
後からわかったのですが、退院するという「希望」が欲しかったようでした。それからしばらくすると、髪の毛が伸びたので散髪がして欲しいと言い出しましたが、その時はICU室にいましたので先生に許可をいただき、病院内の散髪屋さんにお願いをして来て頂きました。
さすがプロ、ベッドに寝たままで髪の毛をカットして、いつもは電気カミソリでそっていた髭も、本格的に石鹸で泡を立ててそってもらった時の顔はとても気持ち良さそうでした。
髪の長さも2・7㎝切って欲しいと細かい希望を言いました。散髪屋さんも35年間病院で散髪をしていて、病室には出張するがICU室で散髪をするのは初めてだということでした。
手渡された白い封筒
入院の日の朝、家を出る時、「いざという時に読むように」と言って渡されていた白い封筒がありました。
「いざという時って何時なの?」と思っていましたが、怖々その手紙を開けました。
「大阪医療センターに入院・手術を受けるに関してのお願い」という文章で始まった手紙の内容は、「医療スタッフの技量に全面的信頼をよせ、覚悟を持った入院と認識しています。しかし、開腹しなければ分からない事情もありますから、万が一といった事態も想定・覚悟しなければなりません。私も家族もその場合は客観的判断を大変辛い事ですがしましょう」
そして箇条書きで以下のことが書かれてありました。
1.術後経過が思わしくなく、同室の患者に迷惑を与えると思える場合、保険適用外になるが、個室に入れてください。
2.危篤状態に陥った場合は、特別な延命措置は不要。大変辛いでしょうが、思い切って担当医師にその旨を伝えてください。
3.不幸にも最期を迎えた場合。近親者のみ集まっていただき、最低限の家族葬でお願いします。
4.学友や会社関係者への連絡についてのお願い。
多くは年賀状のやり取りの関係になっているが、以下の11名については、携帯電話の名簿に○記を付けてあります。私の携帯からの発信で良いので、初七日までに発信してください。と11人の名前が書かれてあり、
「西山の家内でございます。夫昭雄○月○日……で亡くなりました。尚、通夜・告別式は故人の遺志で近親者により執り行いました事、メールで失礼とは存じますがご連絡させていただきます。生前中は何かとお世話になりました事、ありがとうございました」と死亡日と病名を入れるだけのメールの文章まで書かれてありました。
子供達には私を大切にすること等が書いてありましたが、肝心の私には何も書いてありませんでした。人工呼吸器を付けて話が出来なくて、筆談の主人に「私には何も言うことはないの?」と聞くと「お前には何も言わなくても分かっているやろう」
そしてその横に小さな文字で「きよみ あいしている」と書いてくれました。山のような沢山の感謝の言葉より私はもうそれで充分でした。そして主人は手術から103日目に力尽き、天国に旅立っていきました。
平成22年7月10日。その日は私の乳がん手術の9日後の出来事でした。
病気になっている場合じゃない
私の乳がんが分かったのは、主人がやっと手術室横のICU室から出て一般病棟看護詰所横のHCU室に移り、まだ食事はできず首の横からの中心静脈カテーテルと点滴で栄養を取っている時でした。
着替えの時に、ブラジャーの裏の右先の所が少し丸く黄ばんでいるのに気がつきました。絞ると薄黄色の粘液性の液体が少し出てきました。反対の左の乳房は絞っても何もでないのですが、「疲れが溜まってホルモンのバランスでも崩れているのかしら?」と思っていました。
その頃、私も少し疲れが溜まってきているなと自覚していましたし、胃の調子が少し悪かったので、主人の病院へ行く前に、近所の掛かり付けの病院へ胃薬を貰いにいくつもりで診察に行きました。その先生は主人の肝臓がんを最初に見つけてくださった方です。
主人の今の状態の報告もして、ついでに私の右乳房のことを言うと、診察して首をかしげて、「怪しいので乳腺の専門医に診てもらったほうがいい」と紹介状を書いてくださいました。
私は7か月前の乳がん検診で、反対側の左乳房に小さな腫瘤があるので、マンモグラフィやエコー検査、CT検査を受けていましたが、今のところ大丈夫で要観察ということでしたので、3か月後に検査に行く予約をして帰りましたが、主人の入院があったりしてすっかり忘れていました。
でもまさか? 反対側だし……と思っていました。だいいち、こんな時に私が「乳がん」なんてありえない。「乳がん」にしろなんであっても、私が今病気になっている場合ではないと思いました。
紹介先の先生に今、主人が「がん」であること、それも大変な時期であること等をお話ししました。触診、マンモグラフィ、細胞診をして結果は2日後に聞きにくること、その時手術をするのであればこの病院でするのか、違う病院でするのか決めてくること、と言われました。
今から考えると「乳がん」であることは先生にはおおよそわかっていたのだと思います。でもその時私は間違いであって欲しい、どうか「乳がん」ではありませんようにと願っていました。
2日後、一人では行けなくて先生には友人を姉だと言って付いて行ってもらいました。
結果は「乳がん!」でした。でも、へこんでいる場合ではありません。結果を聞いたその足で友人と別れて、私は主人の待っている大阪の病院に行ったのですが、どう電車を乗り継いで行ったか覚えていません。