知ってほしい「膵神経内分泌腫瘍」のこと 希少がんに生かされて 第1回
佐藤直美さん(主婦)
<病歴>
1996年 「膵臓の腫瘍」で摘出手術
2000年 甲状腺右葉(良性)手術
2001年・2004年・2006年 肝臓(再発)手術
2012年 肝臓ラジオ波焼灼術治療
2013年 甲状腺右葉(2回目)手術
編集部注:原稿は5年前に書かれた原稿に加筆したものです
赤ちゃんコンクール
幼稚園に通う頃の私は、同じ年頃の友達の中で1人だけぐんと背が高くしっかりした体格。周りの小さくて可愛らしい友達の中、どっしり構えた私が人見知り顔で写真に写っている。
父が製薬会社に勤めていた頃に私が生まれ、当時発売されていた栄養剤を粉ミルクに混ぜて飲まされていたらしい。昭和37年頃の粉ミルクの栄養は、母乳と比べ足りないものが色々あったので、それを補うつもりだったというのは有難い話なのだが、それにプラスして、当時は粉ミルクメーカーが主催する赤ちゃんコンクールがあって、両親は私を優勝させたいとも思っていたと聞き、ちょっとショックだった。
これが私の病気に関係あるかどうかはわからないけど、無関係ではないだろうと想像している。赤ちゃんの頃から私は本当に丸々とした金太郎のような肉付きで、体格ではコンクールに出場すれば優勝も可能だったかも知れないような大きな赤ちゃんだった。
けれど、私は大きな声で泣かないし、ハイハイもマイペースで、他の赤ちゃんとの競争なんて成り立たないのんびりした赤ちゃんだったので、両親は私が勝てないと判断し、コンクールにも参加させず無駄に大きな赤ちゃん時代を過ごしてしまったようだった。
脇腹が痛くなって歩けなくなることが頻繁に
幼稚園から小学校に入学、そして中学校。私は常に1番大きな女の子だった。その頃の記憶にはっきりと残っているのは、外食をした帰り道などで、必ず脇腹が差し込むように痛くなってしばらく歩けなくなることが頻繁に起っていたことです。両親や弟は私と同じものを食べても全くなんともないのに、私だけが痛くて歩けなくなっていました。
今思えば、どうしてそのときに病院に行かなかったのか。もし病院に行っても、数分休めば痛みが消えるので、とくに何も調べたりは出来なかったかもしれないが……。
なぜ今こうした記憶を辿るのかというと、私の病気が原因不明の病気だからなのです。膵臓に腫瘍が見つかり摘出することを決めたとき、とても大きな腫瘍だったので、小さなころからその芽があって、少しずつ大きくなった可能性もあると聞きました。
またそれとは別に「責任感が強くて、頑張り過ぎちゃう性格じゃない?」と主治医から指摘され、ドキンとしたことも忘れていません。
「膵神経内分泌腫瘍」。これが私の病名です。
内分泌というホルモン由来の腫瘍で、進行はとても遅くて治療法も確立されていない希少(きしょう)ながんなのです。
私はこの病気を多くの人に知ってほしいという思いを込めて、闘病記を書くことにしました。
2カ月近く入院して検査
1996年の春、33歳だった私は膵尾部(すいびぶ)に出来た握りこぶし大の腫瘍を摘出する手術を受けました。
しかしそれ以前に、体に何らかの異常があるのに、どこに何があるのかはっきりするまで2カ月近く入院して、さまざまな検査を受けました。
我慢出来ない腹痛で、脂汗を流しながら尿検査のため採尿する際、紙コップの中が真っ赤な血で溢れたのを見た医師が、「こんな状態ではこのまま入院していただかなくてはなりません」と、泌尿器科病棟へベッドの手配をしてくださいました。
これまで大きな病気をしたことのない私も、付き添ってくれていた主人もまさかこのまま家に帰れなくなるなんて考えてもいませんでしたから、家で留守番をしている当時小学校5年生の娘たちもとても動揺したようです。
急に入院することになったので、主人に私のパジャマや下着、歯ブラシなど入院するに当たって必要なものを買い揃えて持ってきてもらいました。私が入院したことで、これまで私がやってきた家事全般をまるごと主人に頼まなくてはならないことが本当に心苦しく、申し訳ない気持ちで一杯になりました。
そんな頃、病室に75歳くらいの女性が入院して来られました。胃腸の具合が悪いので検査だということでしたが、とても元気な人で何度も検査に通うより数日入院して一気に検査を済ませたい、ということでの入院だそうです。
おしゃべりが好きで、誰にでも気軽に声をかけてくる人だったのですが、ベッドで横になっている私に、「あんたみたいな若いもんが、何でこんなところで寝てるんだ」と言い出した。私が答えもしないうちに「病気なんていうのは年寄りになってからするものなんだ。若いうちは働かなくちゃならない。だからこの歳になったら国が面倒を見てくれるんだ」と話す。
医療費の負担が少なくて済む年齢だということらしいが、私は若いので医療費が高く、不経済だと言われているようでとても息苦しくなったが、私にはどうすることも出来ない。
何事も無く歳を重ねていければそれがいいとわかっているものの、あまりにストレートな物言いに何も言い返せず、その晩は1人ベッドで声を殺して泣きました。
ただでさえ主人の転勤で引っ越してきた知り合いのいない土地で、見ず知らずの人の言葉にこんなに怯えるとは自分でも気づかないうちに心が弱くなっていたのかも知れません。
手術で摘出するしかない
入院中同じ病室で出会う人とは24時間枕を並べる仲なので、出来れば上手くやっていきたいものだけど簡単なことではないのです。
別のベッドには白髪の80歳くらいのおばあさん。たまに来る家族は50歳代の夫婦が交代で洗濯物を交換しに来る程度で、おばあさんとは会話もほとんどしない。
おばあさんは少しだけでも世間話がしたい様子なのに、お嫁さんらしい人は忙しそうに汚れ物をまとめると10分もいないで帰ってしまう。
おばあさんは足が悪いのでポータブルトイレを使っているがそれでも失敗してしまうことがあり、着替えが頻繁になってしまう。お嫁さんは看護師さんに紙おむつを使って欲しいと大きな声で話しかけるが、そこにはおばあさんの気持ちなど聞く余裕は一切ない。
「トイレに立つことが出来るのだから、紙おむつ使うことはないですよ」と言われ、不機嫌そうに帰って行く。
おばあさんは胃がん手術の後なので食べることは禁止されているが、水は許可が出ていて氷を入れた冷たい水が唯一の楽しみだと話していた。
おばあさんの枕元に置いてある水入れが空になっているのに気づき、私が氷と水を入れてあげることにした。おばあさんはそれをとても喜んで美味しそうにコクコクと飲み、笑顔で「すっきりするね。ありがとう」と優しい目元で笑っている。鼻から管が入っているため喉(のど)の違和感がずっとあるので冷たいお水は本当に気持ちがいいようで、私もおばあさんの喜ぶ顔が見たくて水を運んでいた。
私の検査が進み、膵臓に大きな腫瘍があることがわかった。どうやら腫瘍が腎臓を圧迫していたために血尿が出たらしい。かなり大きな腫瘍らしく、薬で腫瘍の縮小を試みるがほとんど変化がなく、手術で摘出するしかない、との判断となった。
退屈な検査もやっと終わった。が、次は開腹手術の準備。必要なものを買うのも主人のお世話になるしかなくて、申し訳ない気持ちがずっとつきまとう。
こうなったら「早く手術をしてもらって、1日も早く退院することだ」、と気持ちの整理も出来た。おかしなもので「手術なんて嫌だ」と泣いて周りを困らせたりしない私だった。
術後の痛みが一向に引かない理由
手術は5時間くらいで膵臓の3分の1程度の摘出と同時に脾臓(ひぞう)と胆嚢(たんのう)も摘出した。脾臓と胆嚢は膵臓に出来た腫瘍を切除する箇所に近いことや、機能的にはそれらの臓器がなくなっても極端に困ることはない、との説明を事前に受けていた。
手術後に摘出した腫瘍と、脾臓、胆嚢を執刀医が家族に見せてくれたそうだけど、全身麻酔の私はただ寝ているだけ。付き添ってくれた家族の心労は本当につらいものがあったと思う。
それに比べれば「私の手術の痛みなどたいしたことはないんだ」と思うのだけれど、手術当日の夜はICU(集中治療室)で体中が燃えるような熱さと痛さに苦しめられ、痛み止め(鎮痛薬)もほとんど効果がないまま翌日までずっと痛みに耐えていた。
3日目の朝になると、ベッドの角度を上げて背中をベッドから少し離した姿勢も取れるようになったことで、驚くべき事実が判明した。それは、なんと私の背中に刺さっているはずの鎮痛薬の注射針が抜けていて、ベッドに丸いシミが出来ているのだ。
痛み止めの薬を追加しても、痛みが一向に引かない理由がやっとわかった。鎮痛薬はベッドに染み込んで、私の体温で半乾きのシミになっていただけだった。
このことは私もショックだったけれど、看護師さんや先生もショックだったらしく私に謝ってくださった。本当ならばもう少し痛みが軽減できたはずなのに、私はその痛みに自力で耐えてしまったという恐ろしい事実。このような出来事は「これが最後でありますように」と祈らずにはいられない一大事であった。