胃がんになったことで世界にチャレンジしたいと思うようになった 妻からのプレゼントでスキルス性胃がんが発見されたプロダーツプレイヤー・山田勇樹さん

取材・文●常陰純一
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2018年4月
更新:2019年7月

  

やまだ ゆうき
1983年熊本市生まれ。熊本高校卒。通称やんま~。プロダーツ団体PERFECTに初年度から参戦し、2009年、2012年、2013年、3度の年間チャンピオン。そして2位4回、3位2回、4位2回と過去11年間で5位以下の成績はなしという安定した実力を発揮し続けるプロダーツプレイヤー。2016年からイギリスのダーツプロ団体PDCにチャレンジし、2017年2月UKオープンにて日本人初となる賞金獲得者となる。2017年PDCワールドカップ日本代表をはじめ、10戦以上にわたる日本代表経験あり

今から10年ほど前、ダーツバーが全国的に流行したことを覚えている人もいるだろう。その後、ダーツゲームはマニアたちの間に定着、さらに競技スポーツとしてもプロプレイヤー2,000人を数えるまでに成長している。

山田勇樹さんはそのダーツゲームのトッププロの1人である。2012、13年と総合ランキングで連続トップの座を占め、満を持して独立を果たすが、その直後に状況は一変した。

家業を忘れ、ダーツにのめりこむ

山田さんがダーツの魅力にとりつかれ始めたのは、家業の理髪店を継ぐために、熊本県下の美容学校に通っていた19歳の頃のことである。その前には県内有数の進学校である熊本高校を卒業、横浜国立大学に進学したものの、高校時代と変わらない「勉強漬けの毎日」に嫌気がさして中退。帰郷して美容学校で学ぶ傍ら、熊本市内のあるバーでアルバイトをしていた。そのバーでたまたまダーツゲームが設置されたのだ。

ちなみにダーツゲームには、ダーツを柔らかな盤面に突き刺すハードダーツと、ダーツが盤面に接触しただけで電子音による信号が発せられるソフトダーツがある。日本での主流はよりゲーム性の強いソフトダーツで、山田さんが勤務していたバーに導入されたのも同じタイプのゲームである。

「最初はまったくダーツに興味が持てなかった。でも始めてみると、意外に最初からうまくやれた。対戦相手である大人たちをギュウといわせられるのも面白かったですね」

そうして山田さんはダーツゲームにのめり込んでいく。来店客で同じようにダーツゲームに魅せられた何人かとグループをつくり、ダーツの「先進県」である福岡に足繁く遠征を繰り返すようにもなった。ちなみに、そのグループの中には、後に山田さんの奥さんになる女性も含まれていた。

そんな中、山田さんたちがよく足を運んでいた福岡市のダーツバーの繁盛店が熊本に新規出店することがわかった。山田さんは家業を継ぐ予定をあっさりと忘れその会社に就職する。その後、10年にわたってプロプレイヤーとしての山田さんが所属するフェリックスという会社である。

実を言えば、そのときには美容学校を卒業し、ある美容サロンへの就職が決まっていた。

「家業の店を継ぐ前に外で修業しようということです。でも、そのダーツバーが熊本に出店すると知って、もう矢も楯もたまらなくなったんです」

当時は全国的にダーツブームが盛り上がっており、とくに福岡は熱狂的だった。その店は、その福岡でも、最も洗練された店で最も繁盛している店でもあった。山田さんは将来その繁盛店のオーナーになりたいと考えたのだ。

「でも、それまでわがままを聞き続けてくれた父親には申し訳なかった。それで家を出て働くことにしたのです」

そうして山田さんは本格的にダーツの世界に足を踏み入れることになる。ちなみに現在の奥さんと起居を共にするようになったのも、その頃のことである。

トーナメント開始とともにプロプレイヤーに

昨年10月仙台での「2017PERFECT」29戦で

その後、しばらくすると山田さんの人生を左右する状況変化が起こる。2007年山田さんの勤務先であるフェリックスがPERFECTというプロトーナメント組織を立ち上げるのだ。ダーツの腕に覚えのある山田さんは自然とプロプレイヤーの一員となる。と、同時に山田さんの快進撃が始まった。

全国で開催されるダーツトーナメントは年間20~30回。その結果で総合ランキングが決定するが、山田さんは2007、2008年2位、2009年は1位。さらに2012、2013年は連続1位と不動の王者の地位を確立する。どうして、ここまで腕をあげることができたのか。山田さんはダーツの上達法についての独自の見解を披露してくれる。

「僕の場合、最も重要だったのは人のアドバイスを受けつけないということでした。

それともう1つ大切なのはメンタル。試合前は確かに緊張する。でもその緊張も含めて、ゲームを楽しめるようでなければ、プレイヤーとして成長しないと思っています」

ともあれ、そうしてダーツの世界の第1人者となった山田さんは、さらに新たな世界に踏み込むことになる。所属選手という形では、契約金などのギャランティの支払いに無理が生じるようになったため、山田さんは完全な1人のプロ選手として独立することになったのだ。がんが見つかったのは、その矢先の2014年3月、山田さんがまだ30歳のときのことだった。

「これからは1人でやっていくのだから、健康面での自己管理も欠かせないということで、独立祝いに嫁さんが人間ドックの受診をプレゼントしてくれたのです」

何とも皮肉なことに、「今後のために」と受診した人間ドックで、スキルス性胃がんが発見されたのだ。

自分は「強運の男」と楽天的に生きてきた山田さんだが「がんと聞いたときには頭の中が真っ白になりました。クルマで迎えに来てくれた嫁さんに、冗談で『やっぱりがんだった?』と、たずねられたときには泣きそうになりました」

そのときには、いろんなイベントの仕事も決まっていたし、いくつかのトーナメントにもエントリーしていた。それをどうしたらいいのか。最寄りのファミレスにクルマをつけて、2人の娘に食事させながら、奥さんとトコトン話し合った。

そこで出た結論は、イベントはすべてキャンセル、しかしトーナメントには出場するというものだった。

それは、つまりがんになっても1人のダーツプレイヤーとして戦い続けていくと意思の確認だったのかもしれない。

しかし、現実は思い通りにはいかなかった。手術を受ける九州がんセンターの主治医から山田さんは「とりあえず仕事はすべてキャンセルしてください」と要請される。

そこで山田さんは差し当たってのトーナメントへの出場を断念、と、同時にがんが見つかったことを公式に発表した。それもまた、山田さんのがんとの戦い方だったのかもしれない。

退院1カ月で戦線復帰

インタビュー中の山田さん

幸いなことに山田さんのがんは、リンパ節や他の部位への浸潤(しんじゅん)、転移がなく、ステージⅠに留まっていたと判断された。ただし、進行の速いスキルス性のがんでもあった。そこで、将来に禍根を残さないために、手術に先駆けて2週間にわたって転移の有無を調べる全身の検査が行われた。

「転移があると、それだけ再発のリスクも高くなるわけですからね。先生は治るから大丈夫とも言ってくれないし……。そのときには、正直ビビってましたよ。生きた心地がしなかった」

検査の結果、どこにも転移がないことが確認され、一部リンパ節も含め、胃の3分の2を摘出する腹腔鏡手術が行われることになった。がんが見つかってから約1カ月後の2014年4月のことである。後で山田さんが奥さんに聞いたところでは、手術は予定時間をオーバーしている。

それは、当初は予定していなかった「コリコリしたリンパ節」を削除したことによるものだったそうだ。そんな想定外の事態があったものの、手術は無事終了した。しかし、山田さんが胸をなでおろしたのは、それからしばらくしてからのことだった。

「先生から退院の話があって、そのときに薬の話が全くでなかったので、安心しました。少しでも再発の危険性があれば、抗がん薬などで再発予防の治療が行われるはずでしょう。それが全くなかったので、安心してもいいだろうと思ったのです」

そうして手術から2週間後、山田さんはがんセンターを退院。

その12日後には早くも戦線に復帰する。福岡市で行われたPERFECTトーナメントの第5戦である。開催場所が遠隔地であれば欠場の予定だったが、地元での開催だったこともあり、「何かあれば病院に急行すればいい」との判断だった。

その試合での結果はベスト16。しかし、さらにその5戦後、横浜で開催された第10戦で山田さんは、長年のライバルだったプレイヤーと競い、見事に優勝を果たす。結局、その年も総合ランキング4位と上位の一角を占める。それが山田さんの本格的な復帰の第1歩だった。それから現在に至るまで山田さんは、毎年、ランキングの上位を占め続けている。

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