またステージに立つという自分の夢もあきらめない 急性骨髄性白血病を乗り越えた岡村孝子さん
1962年愛知県岡崎市生まれ。1982年〝あみん〟として「待つわ」でデビュー。1985年ソロデビュー。1987年にリリースされたシングル「夢をあきらめないで」はロング・セールスを記録、中学校の音楽の教科書にも広く採用されるなど、今でも多くの人々に親しまれている。1988年にリリースされたアルバム「SOLEIL」から6作連続アルバムチャート1位を記録。吹き抜ける風のような軽やかさ、女性の誰もが共感を覚えずにはいられない世界観、紡ぎ出されるメロディーと歌詞には時代の流行り廃りとは無縁の普遍的なテーマが宿る。2019年5月、前作から6年ぶりとなる18枚目のオリジナルアルバム「fierte(フィエルテ)」(6月2日、愛知県で行われた「第70回全国植樹祭」大会イメージソング「と・も・に」を含む)をリリース。2020年10月、ソロデビュー35周年を迎えた
岡村孝子オフィシャルサイト
デュオ〝あみん〟として「待つわ」でデビューし、大ヒットを飛ばしたシンガーソングライターの岡村孝子さん。3年後ソロとして再デビューしてからも「夢をあきらめないで」など多くの曲を世に送り出してきた。
6年ぶりとなるオリジナルアルバム「fierte(フィエルテ)」を発売する矢先の2019年4月、急性骨髄性白血病と診断され入院。思いもしなかった病名に岡村さんの頭の中は真っ白に。5カ月に渡るつらい闘病生活をどう乗り越えてきたのか、そして闘病後の心境はいかばかりか、岡村さんに訊いた。
自分には縁はないと思っていた急性骨髄性白血病に
岡村孝子さんが自身の体調の変化に気づき始めたのは、2019年2月頃のことだった。歯茎が腫れ、以前からの肩こりや腰痛もさらにひどくなったような気がしていた。
そんな3月、母と娘の3人で金沢に観光旅行に出かけた岡村さんは、兼六園を散策中、急に足が攣(つ)って歩けなくなった。それでも、休憩所や駅で休み休みながら金沢観光は続けた。
「そのときには、この症状は年齢から来るものなのかな、くらいに軽く考えていました」
幸運だったのは、岡村さんが大学病院の消化器内科に掛かっていて、その定期検診が4月にあったからだ。その検診では消化器について問題はなかったのだが、血液検査では最低でも3,100/μl以上はある白血球の数値が1,500/μlを切っていた。再度、血液検査を行うと白血球の数値は1,300/μlとさらに下がっていた。
そこで、血液内科の医師が呼ばれ3度目の血液検査を行ったのだが、やはり白血球の数値は低いままだった。
白血病を疑った血液内科の医師は岡村さんに、「WT1(ダブリューティーワン)の検査をしておきましょう。その検査の結果、何もなければ何でもないし、もし何かあったら電話します。その結果次第では、翌週に骨髄穿刺(こつずいせんし)をすることになるかも知れません」と告げたのだった。
WT1検査とはWT1という種類のがん抗原が白血病細胞に非常に高い比率で現れ、この数値を測定すれば体内にどのくらい白血病細胞があるのかが把握できる検査である。
後日、医師から連絡が入り、「WT1検査の結果、白血病の疑いがあるので骨髄穿刺をして、さらに詳しく検査する必要があります」と告げられた。
4月16日に母と娘3人で大学病院に出向き骨髄液を検査する骨髄穿刺をした。
「骨髄穿刺を受けるにあたって、周りの友人からはすごく痛いと脅かされていたので予め覚悟していたせいか、思っていたよりは痛くはありませんでした」
結果はすぐわかるとのことだったので、1時間ほど病院内の喫茶室でお茶を飲んでから診察室の前に戻った。
すると「バクタ(一般名スファメトキサゾールトリメトプリム)、バクタ」と言って、医師たちが慌ただしく右往左往していた。
診察室に入ると元々の主治医である消化器内科の医師と血液内科の医師ら3人が待っていた。3人が3人とも暗い表情をして下を向いていた。
そこで医師から急性骨髄性白血病であると告げられた。
岡村さんはある程度、覚悟していたものの医師から正式に急性白血病と告知され頭が真っ白になったという。
それまで岡村さんは「競泳の池江璃花子さんが急性リンパ性白血病を発症したというニュースが流れたときも、『白血病って運動量の多い10代の若い人が罹る病気なんだな、池江さんも皆さんの期待が大きいこともあってストレスが大きかったのかな。早く良くなられるといいなと』と思ったぐらいで、自分にはまったく縁のない病気としてニュースを観ていました。だからもしかして白血病かもしれないと思ったときも、それまで病気らしい病気をしたことがなかったので、少し休めば回復するのではと割と楽観的に考えてもいました」
臍帯血移植後につらい副作用に苦しむ
急性骨髄性白血病と告知され頭が真っ白になった岡村さん代わって、大学生の娘が医師たちに今後の治療のことなどをいろいろ質問してくれた。それを聞いて岡村さんは「こんなに頼りになる年齢になったのだな」改めて娘を見直したという。
告知を受け気落ちして自宅に戻ると、娘が「お母さんが側にいてくれるだけでいい。私のために治療してほしい」と言ってくれた。
4月18日に入院して、検査の日々が続いていたとき、医師に「本当に白血病なんですか」と訊いた。いまだ自分が急性骨髄性白血病と信じられなかったからだ。
「4月16日に急性白血病と診断されて18日に入院するまで、2回ぐらいデパートに行って買い物ができるくらい元気だったので」
検査が終わり、1クール5~7日の抗がん薬治療、3クールが開始された。副作用はそんなにつらくはなかった。ただ他の患者さんと違う副作用が発現したという。
「熱が出たり口内炎が酷くなったり、脱毛したりはあったのですが、他の患者さんと違っていたのは携帯の着信音などの音がMRIの中に入っているみたいに24時間、頭の中で鳴り響いていました。そのことを医師に話すと、『それは珍しいケースです。いままでそんな訴えをした患者さんはいませんでした』と言われました」
しかし、この段階での副作用はまだ序の口だった。本格的な副作用に苦しめられたのは臍帯血(さいたいけつ)移植を受けてからだった。
岡村さんが罹患した白血病は治りやすくも治りにくくもないタイプで完全寛解を望むのなら骨髄移植か臍帯血移植を受けたほうがいいと医師からは言われていた。
岡村さんも医師には完治してステージ復帰をしたいと告げていたので、ドナーが見つかりやすい臍帯血移植を受けることに決めた。
臍帯血移植をするためには、まず骨髄の中の白血球をゼロする必要がある。そのため大量の抗がん薬を点滴投与する〝前処置〟を受けることになった。さすがにこの副作用はつらかったが、医師からは「思ったより経過が良かった」と言われ、当初の予定より1週間も早い7月29日に臍帯血移植を受けた。
臍帯血移植後も、毎日吐き気が続くなどつらい副作用に悩まされた。
「私にとって移植は未知の世界だったので本当に正常な体に戻るのだろうか、と思ったりしました。また免疫抑制剤を使用していたので、指先が震えてペットボトルの蓋も開けることができませんでした」
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