仕事をしながら療養する
胃がん手術後、4度に渡る腸閉塞で退職。年金を受給しながら野球のボランティアコーチを始める

取材・文:菊池憲一 社会保険労務士
発行:2006年6月
更新:2019年7月

  

岩見眞男さん


岩見眞男さん(現在、64歳)は、97年5月の夜、腹痛に襲われた。胃から苦い水が出てきたように感じた。その3カ月前に受けた人間ドックでは「異常なし」の検査結果だったから深刻には受け止めなかった。しかし、心配した家族の後押しで近所のクリニックを受診した。院長から「胃カメラの検査を受けたほうがよいですね」と言われて、総合病院を紹介された。その総合病院で胃カメラの検査を受けたところ、「胃がんです。でも初期ですから手術を受ければ大丈夫ですよ」とあっさりと告げられた。

56歳だった。製造会社の取締役を引き受けて3年目。バブル景気が去り、会社の売り上げは伸び悩んでいた。岩見さんは、会社の再建に向けて、全力を尽くしていた。毎日、営業会議や企画会議、製造会議など複数の会議に出席し、現場の声に耳を傾けながら会社の方針を決めていた。かなりのストレスを抱えていたようだ。

会社の経営幹部に説明をして、入院の準備を始めた。そして、胃がんの告知から2カ月後の7月、手術を受けた。胃の上部(噴門部)を中心に胃の3分の2と胆のうを切除し、残った胃と食道をつないだ。入院期間は1カ月ほど。「幸い収入はありました。貯蓄もあったので入院費などの医療費の心配はありませんでした」と岩見さん。

術後1カ月で会社復帰。 6種類の薬を服用しながら仕事を続ける

97年8月。手術をしてから約1カ月後、岩見さんは、会社の取締役に復帰した。手術前、体重は70キロだったが、手術後は55キロまで減った。しかし、会社に復帰後、入院前とほとんど変わらない仕事のリズムを保ち続けた。出勤時間は午前7時。経営幹部を含めた全社員の中で一番早かった。約1時間半、会社の近くをジョギングして汗を流した。そして、午前8時半から午後5時まで仕事に集中した。食事は朝昼晩の3食とも軽めにとった。1日2回、午前10時と午後3時にはカロリーメイトでエネルギーの栄養補給をした。また、整腸剤、消化薬、ビタミン剤、胃炎・逆流性食道炎、消化管潰瘍改善薬、胸やけ・吐気改善薬など6種類の薬を服用。睡眠中は、逆流性食道炎を防ぐために、ベッドを斜めにした。そして、土・日曜日は、軟式野球を楽しんだ。

実は、岩見さんは高校時代、北関東の代表として甲子園に出場。大学野球でも活躍した。肩を壊してプロ野球入りは断念したが、ノンプロからオファーがあったほどだ。新幹線の車両を製造する大手企業に就職して7年間勤務。大手板金機械の関連会社に転職し、工場の現場監督を務めてから45歳で取締役に就任。以後、4つの会社で取締役を務めてきた。野球は会社に就職してからもずっと続けてきた。現在も軟式野球の強豪・さいたまクラブの最年長の現役選手。サイドスローから七色の変化球を投げ分ける技巧派のピッチャーとして活躍中だ。毎日のトレーニングは、マウンドに立ち続けるためである。「若いときから体力には自信がありました。今でも100メートルを13秒台で走れます。ただ、もともと胃は丈夫ではなかったですね」と岩見さん。

手術後、岩見さんはタバコをやめた。手術前は1日40~50本のタバコを吸っていたが、担当医のアドバイスもあって禁煙した。しかし、取締役として、毎日、複数の会議に出席するなど、術前と同様の激務が続いた。その影響が身体に現れた。手術をしてから約1年7カ月後、99年2月の夜、腹痛に見舞われた。お腹がさし込まれるような耐え難い痛みだった。救急車で手術を受けて総合病院に搬送された。腸閉塞だった。口からチューブを入れて、腸に詰まっていたものを吸引した。黒いものがペットボトル5~6本分も出てきたという。

会社の取締役を退いて、高校野球のボランティアコーチに

会社の定年の60歳を迎えた。しかし、経営幹部の強い要請もあり、取締役を続けた。「会社の経営内容などを考えるとやめられない状態でした。自分の身体よりも『この会社を何とかしたい』という思いほうがずっと強かったです」と岩見さん。

会議では人事・経理課の担当者から「定年退職」や「公的制度を用いた60歳の定年以後の働き方」などについて意見を求められたこともある。人事関係はとくに神経をすりへらしたという。

01年10月の夜、再び腸閉塞で緊急入院。02年5月の夜、3回目の腸閉塞になった。さらに、その1カ月後の02年6月の夜、4回目の腸閉塞で救急車に運ばれて緊急入院した。家族は、岩見さんの身体を気遣った。担当医に相談した。そして、担当医から「このまま会社勤めを続けたら、ストレスで腸閉塞になってしまいます」とドクターストップがかかった。経営幹部に話すと、「それなら1週間に数回、月に数回でもいいですから顔を出してもらえませんか」と懇願された。しかし、家族は取締役を続けることに反対した。熟慮の末、02年12月、岩見さんは取締役を辞めた。「『このまま仕事を続けたらもう野球ができなくなるわよ』と家族から言われたのが一番きつかったですよ」と岩見さんは笑う。

03年の春。62歳のとき、岩見さんは社会保険事務所で年金受給の申請手続きをした。会社が加入していた年金基金からの給付も上乗せされるため、退職後の生活に不安はない。そして、会社の取締役を退いてからは、高校野球のボランティアコーチとして汗を流している。甲子園出場を夢見る40歳の若い監督のよき相談相手になっている。

「私は『継続は力なり』をモットーに仕事と野球に取り組んできました。高校野球のボランティアコーチを通して、そのことを選手にも伝えられたらいいなと思っています」と岩見さんは言う。

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定年と高年齢雇用継続給付
高年齢者雇用安定法の改正で、06年4月からすべての企業に対して、段階的に65歳までの雇用が義務づけられました。年金の支給開始年齢の引き上げにあわせて、定年も段階的に65歳まで延びていきます。また、雇用保険法には60歳から65歳までの雇用継続を援助・促進するために高年齢雇用継続給付という制度があります。原則として、60歳時点に比べて賃金が75パーセント未満に低下した場合に支給されます。定年後も働き続けるためには、こうした制度と年金、賃金を上手に組み合わせていく必要があるようです。


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