鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
東京大学社会科学研究所教授・玄田有史さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2010年5月
更新:2013年9月

  

希望学をやっていて「まんざらじゃない」という言葉が好きになりました
希望――それは人生という物語を一生かけて紡いでいくこと

玄田有史さん

げんだ ゆうじ
1964年島根県生まれ。現在、東京大学社会科学研究所教授。専攻は労働経済学。2001年『仕事のなかの曖昧な不安 揺れる若者の現在』でサントリー学芸賞及び日経・経済図書文化賞授与。2005年より東京大学社会科学研究所の全体プロジェクトの希望学のリーダーとして活躍中。主な著書に『ジョブ・クリエイション』『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』『人間に格はない』『希望学』など多数

鎌田實さん

かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

日本に希望が必要と感じ希望学をやろうと思った

鎌田 お若いですね。

玄田 昭和39年生まれですから、今年46歳になります。東京オリンピック世代です(笑)。

鎌田 東京大学教授でいらっしゃいますが、学部は?

玄田 学部とは別の社会科学研究所の教授です。東大には地震研究所とか海洋研究所といった、学部から独立した研究所が11ほどありますが、その1つです。

鎌田 研究所は若い教授が多いのですか。

玄田 研究所は戦後間もない頃、南原繁総長の主導のもと、若い教授に学際的な研究をさせる意図で開設したものです。当時は若い教授が多かったと思いますが、現在は30歳代半ばから60歳代まで、年齢層は広いですね。

鎌田 その研究所で「希望学」を研究しておられる。なぜ希望学なんですか(笑)。

玄田 戦後、戦前の反省の上に立って研究所が設立されたとき、1つ目は国際的な視野で考えること、2つ目は特定の学問にこだわらず、広く学際的に研究すること、3つ目は国民生活に資する研究をすること、という理念が謳われました。希望について研究を始めた当初から、そんなことはまったく考えていなかったのですが、研究所の仲間の中に、いまの日本には希望を正面から考えることが必要だという声が、世代を超えてあったものですから、希望を学問としてやってみようと決めたわけです。

鎌田 希望は学問になると思った!

玄田 正直、不安でした(笑)。実際、希望学をやると決まっても、おカネもなかったものですから、国際的に卓越した教育研究拠点の形成を重点的に支援し、国際競争力のある大学づくりの推進を目的とする、文部科学省の「グローバルCOEプログラム」に手を挙げましたが、見事に落ちました。落選理由が「希望など学問になるのか」(笑)。
私は気が弱いものですから、ダメならしょうがないと思いましたが、仲間の研究者にはあきらめの悪い人が多くいて(笑)、「学問になるかどうか、やってみなくちゃわからない。おカネがなければ、自分たちで集めればいいじゃないか」ということで始まったわけです。世界的に評価される研究を行い、世界で評価される学術論文を書くという専門の研究を行いながら、学際的な面白い研究も行うということです。

希望が動かした目に見えぬ免疫の力

鎌田 この雑誌の読者は、がん患者さんとそのご家族です。私はそういう人たちにこそ希望が大切だと思って、玄田さんにお目にかかりたいと思ったわけです。

玄田 希望学を立ち上げた当初、重病の子どもたちを患者さんに持つお医者さんから、死と直面している患者さんたちに勇気を与える学問になってほしい、というメールをいただいたことがあります。

鎌田 私は『あきらめない』という本の中で、スキルスがんの42歳の女性を取り上げたことがあります。彼女は余命3カ月と言われてホスピスに行くわけですが、子どもさんの卒業式には出たい、という希望を持っていました。緩和ケア病棟の医師と化学療法を行う医師、ダブル主治医のようになって、彼女の心と身体の痛みを取るような治療をしていたら、奇跡的に翌年春まで命が持ち、卒業式に出ることができました。すると、彼女は年子の下のお子さんの卒業式にも出たいと希望を持ちました。周囲はまさかそこまではと思ったのですが、彼女は下のお子さんの卒業式まで生き抜いたのです。
私は、科学的には証明できないけれども、希望が何かを変えた、見えない免疫の力を希望が動かした、と感じました。患者さんを支えるには、科学的な治療も必要ですが、私はずっと、希望は大事だと考えてきましたから、希望学には大いに関心があるわけです(笑)。

釜石市の再生努力の中に希望の大切さを学ぶ

玄田 希望学の研究で岩手県釜石市を調べたことがあります。釜石にはかつて、新日鉄の高炉があり、新日鉄釜石のラグビー部が日本選手権で7連覇を果たした、希望に満ちた街でした。
戦前からの輝きを持った街で、林芙美子は「釜石は東北の上海のような街だ」と書いています。それが、製鉄所の高炉の火が消え、新日鉄釜石のラグビー部も解散し、街がさびれていったわけです。しかし、再生に向けたさまざまな模索や葛藤が行われてきました。私たちは何の先入観も持たず、街の人たちのお話に全身全霊で耳を傾ける中で、その模索や葛藤に希望があることを感じました。

鎌田 最近は希望が持てるようになっているのですか。

玄田 統計的には、昭和から平成に変わるころと比べると、工業出荷額は上回るようになっています。人口はピーク時の半分ぐらいに減っていますけれど。

鎌田 産業構造が変わった。

玄田 変わりました。かつては製鉄の街がいまは、他の工場では作れないような技術を使って自動車のタイヤに入っているワイヤーなどを作っていますし、それに基本的には海の街ですから、水産加工業も努力しています。以前は捨てていた魚のカスから健康用の画期的なサプリメントを作ることにチャレンジをしている会社もあります。

鎌田 釜石は希望に満ち、明るくなり出していますか。

玄田 明るくなったとまでは言いませんが、希望を持って何かに向かって走っていることはたしかですね。

鎌田 住民の方たちが将来に何か希望を持っているというふうに感じますか。

玄田 釜石は戦前2回、大津波に襲われたり、戦時中には激しい艦砲射撃を受けたり、20年前にはずっと燃え続けてきた高炉の火が消されたり、何回となく試練にさらされてきています。しかし、釜石の人たちはそのつど、希望を持って試練をくぐり抜けてきました。78歳の男性に、「夢は何ですか」と尋ねたら、半分照れくさそうに、でも半分毅然として、「夢を持ちながら死んでゆくのが夢」とお答えになりました。

鎌田 かっこいいねぇ。

玄田 「夢が叶うということではなく、夢を持ってやったことを、誰かが知ってくれたら、それでいい」とも。他の地域もそうだと思いますが、そんな人たちが、釜石にはたくさんいます。

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