鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
がん難民コーディネーター/翻訳家・藤野邦夫さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2009年12月
更新:2013年9月

  

家族3人をがんで亡くし、自らも前立腺がん。
ボランティアで立ち上がったがん難民コーディネーターの気概
国が守ってくれないなら、代わって国民の命を武装させよう

藤野邦夫さん

ふじの くにお
1935年、石川県生まれ。早稲田大学フランス文学科卒業、同大学院中退。小学館に勤務し、主に「週刊ポスト」など週刊誌畑を歩く。その間、専門の言語学で東京大学、女子栄養大学などの講師を勤める。著書に『幸せ暮らしの歳時記』(講談社)『現代日本の陶芸家と作品』(小学館)『がん難民コーディネーター』(同)『ガンを恐れず』(角川書店)など。訳書に『死と老化の生物学』(新思索社)『手の500万年史』(新評論)『ネアンデルタール人の首飾り』(同)『米中激突』(作品社)など。現在、がん難民コーディネーターとして、ボランティアでがん患者の相談に乗っている

鎌田實さん

かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)

週刊誌の記者をやりながら医学・医療の知識を蓄積

鎌田 (白の上下で現れた藤野さんを見て)藤野さんは私よりかなり先輩ですが、お若いですね。

藤野 鎌田さんよりひと回り以上年上の74歳です(笑)。

鎌田 現在は、がん難民コーディネーターとしてご活躍ですが、もともとは何をされていたのですか。

藤野 早稲田大学の大学院を中退して、出版社の小学館に入り、40年ほど雑誌関係の記者をやっていました。

鎌田 どんな雑誌ですか。

藤野 ほとんど週刊誌です。「週刊ポスト」が長かったです。

鎌田 週刊誌で医療やがん関係の取材をして、この分野に入ったということですか。

藤野 私は学生時代に言語学をやり、人間の思考、感情、認識、無意識までが言語から成立しているという観点に立っていたわけですが、そこから次第に種としてのヒトを扱う生物学に関心を持ったのです。それで週刊誌で医学・医療関係の取材をしている間に、病院の先生方と親しくなり、私が言語学を修得し、翻訳もできるということで、35歳ぐらいから、外国の医学・医療関係の論文を翻訳したり、先生方と一緒に、医学・医療関係の翻訳書を出すようになったわけです。

鎌田 週刊誌の取材をやりながら、医学・医療関係の翻訳もやった。

藤野 そういうことです。気がついたら200冊ぐらいやっていました(笑)。また、定年退職してから、『幸せ暮らしの歳時記』(講談社)『がん難民コーディネーター』(小学館)『ガンを恐れず』(角川書店)といった本も出しています。

鎌田 いや、わかりました。藤野さんががん難民コーディネーターをボランティアでやっていらっしゃると聞いて、私は最初、この人は何で生計を立てていらっしゃるのか、ちょっと不思議に思ったんですよ(笑)。小学館に定年まできちんと勤められて、翻訳書やご自身の単行本を出していらっしゃるわけですね。

藤野 現在も、前立腺がんの患者さん向けの本をはじめ、がん関係の本を6冊ほど書く予定になっています。

鎌田 「週刊ポスト」できわどい取材をやりながら、一方で海外の医学的な論文の翻訳もして、医学・医療に関する知識や情報を蓄積されたわけですね。

藤野 若いときは事件物とか、きわどい取材もやりますが、ある程度の年齢になりますと、若い記者の監督をしたり、連載小説やコラムの担当になります。鶴見俊輔さんが、「世界広しと言えども、『週刊ポスト』のように、ソープランド最新情報と、ウイットゲンシュタインやチョムスキーが同居している週刊誌はない」とあきれていましたが(笑)、時々、外国の非常に面倒くさい論文などが入ってきて、それを私が担当していたのです。

マスコミで紹介されると全国からがん難民が殺到

鎌田 現在、がん難民コーディネーターをやっていらっしゃるのは、そうした仕事で蓄積してきた医学・医療の知識と、後でうかがいますが、ご自身の2度にわたるがん騒動が背景にあるということですね。

藤野 それに、私の母と弟と妹の家族3人が、がんで死んでいるんです。弟は東京大学の数学の先生をしていましたが、42歳のとき肺がんで死にました。母親は直腸がん、妹は食道がんでした。家族3人がんで死ななければ、私はがんに関心を持たなかったと思います。がんで家族3人を亡くして、これは何とかしなければと思い始めたのです。

鎌田 それをボランティアで始められたのがすごい。

藤野 最初はとくに定年後に、知り合いやら会社の元同僚が紹介してくる患者さんの話をいろいろ聞いて、相談に乗っていたんです。

鎌田 お金をもらうわけにはいかない(笑)。

藤野 京都まで行っても、交通費もいただかない。当時、それなりの年収がありましたから、お金に困ることはなかったのです。ラブロマンスの漫画の原作なども書いていましたから(笑)。そのうちに「週刊ポスト」が、身近にボランティアでがん難民の世話をしている珍しい男がいると取材にきて、4週連続で特集を組んだのです。そのとき、副編集長が「何か肩書を付けたほうがいい」と言って、「がん難民コーディネーター」という名前を付けたわけです(笑)。

鎌田 なかなかのネーミングですよね(笑)。

藤野 「週刊ポスト」でがん難民コーディネーターとして全国的に紹介されたものですから、私がまったく知らない、病院に見放されたがん難民の方々が、全国からいろんなルートで訪ねて来られるようになりました。沖縄から来られた人もいます。もともとお金儲けでやっているわけではありませんから、そういう人からお金を取るわけにはいかないですよ。そうこうしている間に、他のマスコミでも取り上げられるようになりました。

鎌田 NHKの「ラジオ深夜便」、テレビ朝日の「報道ステーション」などで取り上げられたそうですね。

藤野 はい。「ラジオ深夜便」は朝4時からの番組ですが、聴いている人が結構多いんですね。私は40分間しゃべったんですが、反響が大きかったですね。昨年9月に流されて以来、聴取者の要望が多いので、去る7月に4回目の再放送をしましたが、100本を超える手紙やメール、ファックスが来ましたよ。
「報道ステーション」では10分程度の放映でしたが、次の日1日だけで400通を超えるメールが来ました。4日目には1000通を超えましたよ。私は1日にせいぜい5~6通ぐらいしか返事を書くことができません。それでも2~3カ月かけて、600通ぐらいは返事を出しましたよ。

鎌田 すごいですねぇ(笑)。それに対して、また返信が来たでしょう。

藤野 来ました。これではダメだと思ったのは、返事に時間がかかっているうちに、ご家族から「ありがとうございました。残念ながら亡くなりました」という返事をいただいたときです。そこで着信をクローズしたんですが、合計で4600通のメールが来ましたね。そうした相談にいろいろ対応していると、翻訳の仕事はできないし、漫画の原作も書けないほど忙しくなりました。それに、結構お金がかかるのです。そのうちに家内が、「まったく縁もゆかりもない人のために、何をしているの」と言い出しましてね(笑)。


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