鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
順天堂大学医学部病理/腫瘍学講座教授・樋野興夫さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2008年7月
更新:2013年9月

  

「がん哲学外来」でがん医療に新風を吹き込む
がんを深く追究すればするほど人間社会と人の生き方が見えてきます

樋野興夫さん

ひの おきお
1954年、島根県生まれ。順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授、順天堂大学大学院医学研究科環境と人間専攻分子病理病態学教授、医学博士。米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所・実験病理部長を経て、現職。順天堂大学病院に2005年に「アスベスト・中皮腫外来」、2008年に「がん哲学外来」を開設した。主な著書に『われ21世紀の新渡戸とならん』『われOrigin of Fireたらん―がん哲学余話』『がん哲学』など

鎌田實さん

かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)

「がん哲学外来」を開設したきっかけ

鎌田 お生まれは出雲大社の近くの小さな村だそうですね。

樋野 現在、34軒の家しかない小さな村です。人口60数人、無医村です。

鎌田 臨床医にならず、病理のほうに進んだことについて、少し揺れる心があったようですね。

樋野 無医村に育ちましたから、もちろん最初は臨床医になろうと思いました。しかし、私は出雲弁ですから、他人とコミュニケーションをとるのが苦手だったのです。病理をやりながら、外科も半年ぐらいやりましたが、結局、病理に進みました。外科は生きた人間が対象ですが、病理は死んだ人間が相手ですから、コミュニケーション力が要らなかった(笑)。

鎌田 じゃあ、最初から病理に進まれたわけだ。

樋野 そうですね。癌研究会(癌研)に入ってがんの病理の研究をして、発がんの病理に深入りするようになったわけです。

鎌田 樋野さんが「がん哲学外来」を始められたことを知ったとき、「がん哲学」はあっても不思議ではないと思いました。しかし、それに「外来」が付いている。変わった人がいるなぁと思い、会ってみたいと思ったわけです。

樋野 私は2005年に、日本で初めて「アスベスト・中皮腫外来」を始めました。私も3カ月ほど外来に出て、問診をやりました。悲劇的な病気であるアスベスト・中皮腫の外来をやっているときに、次は「がん哲学外来」だと気づきました。

鎌田 読者のために、アスベストと中皮腫の関係を簡単に説明していただけませんか。

樋野 私はもともと発がん研究で遺伝性のがんを研究していました。たまたま10年以上前に見つけた遺伝子が、中皮細胞に特異的に発現する遺伝子だったのです。アスベストを原因とする中皮腫の問題が明らかになった、「クボタ」ショックが起きたのが2005年ですが、すでにその前に、われわれは血液の腫瘍マーカーを造っていました。それを知っていた新聞記者が、「クボタ」ショックが起きたときに、そのことを報道したわけです。それでにわかに血液診断が注目を浴び、順天堂大学で「アスベスト・中皮腫外来」をやったわけです。要するに、10年以上前に遺伝子を見つけ、抗体などをつくって研究を続け、「クボタ」ショックが起きる数年前に、マーカーが完成していたのです。ただ、その頃は、中皮腫など誰も見向きもしませんから、そのまま放っておいたわけです。

鎌田 すぐに役に立たないかもしれない基礎医学を、10年もやり続けているというのは、すごいことですね。

新渡戸稲造の流れと吉田富三の流れを継ぐ

鎌田 樋野さんの本を読みますと、内村鑑三、新渡戸稲造、南原繁らの話が随所に出てきます。彼らから学ばれたことが、陽の当たらない基礎医学を、10年も我慢強く続けたことにつながっているんでしょうか。

樋野 つながっていると思います。私は癌研にいましたから、癌研の所長を務め、がんの研究で文化勲章を受章した吉田富三博士の流れを汲んでおり、医学者として発がんを病理の立場からじっくり研究する姿勢を受け継いでいます。一方、若い頃に、東大法学部で南原繁の教え子だった人の薫陶を受け、それで学生時代から、南原繁を起点にして、南原繁の師であった新渡戸稲造や内村鑑三にも、のめり込んでいったわけです。

鎌田 「がん哲学」ということを初めて言われたのはいつで、どういうきっかけでしたか。

樋野 2000年頃からです。2003年、日本学術会議の機関誌に原稿を頼まれて書いたときに、公的に「がん哲学」という言葉を使いました。南原繁は「政治学を学問的に深く追究する分野として、哲学的領域が残されている」と言って、「政治哲学」という言葉を使いました。私も、「がん学を学問的に深く追究する分野として、哲学的領域が残されている」と考えて、「がん哲学」という言葉を使ったのです。
吉田富三は「細胞レベルで起こるがんのメカニズムは、人間社会でも起こる」という意味のことを言っていますが、「がん哲学」はまさにそのことを深く追究することを意味します。

数年から10年かかって1センチのがんになる

写真:樋野興夫さん

鎌田 病理学者は顕微鏡を見るのが仕事ですよね。顕微鏡を見ていると、人間社会も見えてくるんですか。

樋野 私たちは病理解剖でがんを手にし、肉眼で組織を見ています。さらに顕微鏡でがん細胞を見ながら、頭の中ではDNAまで考えています。つまり、マクロからミクロまで見ている。先輩たちからは「森を見て木の皮まで見る」という精神を教わりました。森を見て木を見、さらに木の皮まで見なければダメだ、というわけです。

鎌田 私たち臨床医は数センチの腫瘍の固まりを見ます。それを樋野さんが顕微鏡で見る。そのあたりまではイメージが連続しています。しかし、樋野さんは顕微鏡で腫瘍を見ながら、腫瘍のDNAまで見て、さらにそのイメージを人間社会にまで広げようとされています。ミクロの世界を突きつめていけば、そのイメージが宇宙にまで広がっていくということですか。

樋野 昔から言われるのは、「1個の花を研究すれば、宇宙までわかる」ということです。最も個別的なものが、最も普遍的である、という感じですね。その意味では、われわれは顕微鏡でがん細胞を見ながら、その先が自然に直結していることを感じます。われわれは病理ですから、マクロのがん、すなわちがんを丸ごと見ていることになります。ですから、1センチのがんができるのにどれぐらいの回数の分裂が必要で、臨床がんになるまでには何年かかるか、すべてわかります。

鎌田 多くのがんは1センチだったら助かりますよね。その1センチの大きさになるまでに、何年ぐらいかかるものですか。

樋野 1センチのがんは約1グラムで、10億個の細胞でできています。そこに至るまでには30回の分裂が行われており、数年から10年はかかっていますね。

鎌田 小さな腫瘍ができるのに、数年から10年……。

樋野 ただ、1グラムのがんが1キロになるには、10回の分裂で済みますから、がんは急速に大きくなる。多くの人はその部分を見ているので、がんの成長は速いと感じるのです。最初の1個のがん細胞が臨床がんになるまでには、20~30年という長い時間がかかっていますよ。

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