鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
在宅医/作家・山崎章郎 VS
 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:向井 渉
発行:2007年1月
更新:2013年9月

  

ホスピスケアは、がん末期の患者さんだけでなく、すべてのケアにつながる

山崎章郎さん

やまざき ふみお
外科医。1947年福島県生まれ。75年千葉大学医学部卒業、千葉大学付属病院第1外科勤務。83年から1年間、北洋サケ・マス母船の船医、南極海底調査船の船医を経験。84年千葉県八日市場市民病院消化器科医長。院内外の人々とターミナルケア研究会を開催し、末期がん患者の延命・がん告知・ホスピスの問題を提起。91年聖ヨハネ会総合病院桜町病院ホスピス科部長。05年「ケアタウン小平」を開設、在宅医として現在に至る。著書に『病院で死ぬということ』『続・病院で死ぬということ』『ここが僕たちのホスピス』『僕のホスピス1200日』『僕が医者としてできること』(すべて文春文庫刊)、『新ホスピス宣言』(雲母書房刊)など

鎌田實さん

かまた みのる
東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、管理者に。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(ともに集英社刊)がベストセラー。最近発売された『病院なんか嫌いだー良医にめぐりあうための10箇条』(集英社新書)『生き方のコツ 死に方の選択』(集英社文庫)『雪とパイナップル』(集英社)も話題に

カリスマ・ホスピス医の地位をなげうって

鎌田 山崎先生はたいへん有名なホスピス医だった方ですが、ホスピス病棟の外に活動の場を求め、昨年「ケアタウン小平」を開設されました。それは、本当のホスピス医であるための戦略と思いますが、今、ご自分では在宅医と称しておられますね。

山崎 在宅医です。この5月から医師2人で診療所をやっていますが、だいたい1軒1時間、1日8軒ほど回りますので、診療所に帰るのは午後8時くらいになります。そういう日々ですから、事実上、在宅医だと思います。
ただ、基盤になっているのは、あくまでホスピスケアです。われわれを支えている行動理念はホスピスケアであり、それを展開する場として今、在宅を選んでいるわけです。
私はホスピス医として10数年間経験を積む中で、ホスピスケアのよさを痛感しました。たとえば、チームケアや、スピリチュアルな部分に焦点を当てるケアや、家族に配慮したケアなどですね。チームケアにはボランティアさんもふくまれます。医師や看護師だけでは足りないケアの部分を、ボランティアさんたちがきちんとサポートしてくれるからです。
ところが、こんなに素晴らしいケアが、今はまだ緩和ケア病棟などの医療制度の中でしか利用できません。さまざまな悩みを抱えた人たちの助けになれる普遍的なケアなのに、緩和ケア病棟に入院している末期がんの患者さんにしか提供できないのです。そこに限界を感じるようになりました。だったら、私たちが病棟を離れ、個人の家に行けばいいと。病棟では来た人にしかサービスを提供できませんが、家に出向けば、がんという疾患の枠を超えられる。実際、私たちが今診ている患者さんは70人ほどですが、半数ががん、半数はがん以外です。

鎌田 たとえば、どんな患者さんですか。

山崎 脳梗塞の後遺症で寝たきりになった方、パーキンソン病やリウマチでなかなか家から出られない方、などがいらっしゃいます。
そうした患者さんのケアを通じて私がよかったと思ったのは、たとえば、意識がなくて寝たきりの患者さんを抱えた家族の方たちの日常生活を、家という場面で見せていただけたことです。私たちは患者さんの話と同じくらい、家族の方たちの思いにも耳を傾けることができます。血圧と脈拍と呼吸を見て帰る短時間の往診では、なかなか見たり聞いたりできないことまで、ご家族の方たちは私たちに教えてくれます。私自身は在宅医療に場を移したら、視野がすごく広がった気がしています。

鎌田 ぼくは逆に、高齢者の在宅ケアから入りました。脳卒中後の家族の介護を見かねて、まだ制度のなかった時代に、長野県茅野市で24時間体制の老人在宅ケアを始めました。そうしたら、中年の末期がん患者さんが「私もこれを利用して家にいたい」と言い出したのです。患者さんからのリクエストで、がんの方の在宅ホスピスケアが始まったわけです。
先生が千葉県の八日市場市民病院にいらしたときも、うちの若い先生たちの研修を引き受けていただきましたね。あの頃はちょうど、うちの病院の在宅ケアの比率が、高齢者ケアと在宅ホスピスケアで半々になり、みんなどうしていいか悩んでいた時期でした。

ホスピスケアを根づかせるには仕組みや場が必要と痛感して

山崎 1987年か88年でした。私が聖ヨハネホスピス桜町病院(東京都小金井市)に移ったのは1991年で、その2~3年前です。私は船医をやっていましたが、84年に船を下り、千葉の八日市場市民病院で外科医として働き始めました。そして翌85年からターミナルケアに本格的に取り組み始め、あちこちで発表するようになりました。当時はターミナルケアがあまり知られていなくて……。

鎌田 とくに国保学会では話もなかったよね。

山崎 そのせいか、ターミナルケア、ターミナルケアと叫んでいる医者がいる、ということがだんだん知れ渡り、多くの方に関心をもってもらえるようになりました。その頃、私自身は一般病棟の中の終末期医療に限界を感じ始めていました。そこで、ホスピスケアという考え方に出合ったんです。一般病棟の終末期医療の問題を解決する方向が見えた、と思いました。

鎌田 それで、桜町病院に移られたんですか。特化してホスピスケアをやりたいと?

山崎 八日市場市民病院では、医師や看護師などでひとつのチームができあがっていました。一般市民の方にも参加してもらって、ターミナルケア研究会という研究会を作り、勉強会も続けていました。鎌田先生の病院の皆さんが来てくれたのも、その研究会でした。
けれど、チームを組んで頑張っても、何も変えられないという思いが強くなってきたんです。たとえば、誰かが病気になったら、チームを維持することもできないのではないかと。私は病院の管理者ではなく、その点でも病院全体に対する影響力が十分ありませんでした。ある機会に、「ホスピスケアという優れたケアがある。ここでも取り組めないだろうか」と院長に打診したときも、「一般の市民病院だから無理です」と、言下に却下されました。そうしたことも引き金になったと思います。
一緒にやってきた仲間は大事でしたが、個人の頑張りを支える仕組みや場を目指さなければならないと思っていたとき、ちょうど桜町病院に誘われたのです。みんなにも事情を話し、行かせてほしいと頼みました。

患者さんが来るのを待たず、出かけていくホスピスケア

山崎さんと鎌田さん

鎌田 で、どうだったですか、桜町病院は。

山崎 1991年10月から昨年の8月まで、14年間働きました。ただし、10年ほど続けたところで再び限界を感じ、1年間休職しました。

鎌田 それは何でした。燃え尽き症候群?

山崎 というか、先ほどちょっとお話ししたように、患者さんが来るのを待つケアに限界を感じたことです。でも、なかなか次の展開が見えなかったので、思い切って休んだのです。その間、「ホスピスケアはがんの人たちだけのものではない」とする大熊由紀子さんに刺激を受け、福祉の世界の取り組みに目を向けたら、今のケアの基本構想が見えてきました。
これに、当時、聖ヨハネホスピスのボランティアをコーディネートしていた長谷方人さんが乗ってくれました。お父さんから引き継いだ資産を元に、建物、土地を管理運営する会社として、(有)暁交流基金を立ち上げてくれたのです。〈編集部注・長谷氏は(有)暁交流基金の現代表〉

鎌田 ここ、いいところだよねえ。

山崎 ありがとうございます。3階建てですが、2階3階はアパート、それも、1人暮らしの高齢者が暮らしやすいアパートになっています。そして、1階には診療所やデイサービスセンターなど、在宅ホスピスを支えるソフトを集約した形のハードができあがりました。隣には訪問看護ステーションがあり、スタッフは常勤4人、非常勤1人ですが、常勤の4人は全員、ホスピスケアにかかわっていた人たちに集まってもらいました。

鎌田 デイサービスセンターは、先生の構想ではデイホスピス?

山崎 そういう位置づけです。

鎌田 がんの患者さんは何割くらい?

山崎 今、がんの方は少ないです。定員20人のデイサービスに、今来ている方は13人前後。うち、要介護4~5の方が7割ですね。私たちとしては、ほかの病院で断られてしまうような医療ニーズの高い患者さんの介護も大きな柱にと考えているので、脳梗塞後の方や気管にカニューレー(呼吸用の管)が入っている方、在宅酸素療法中の方などもいます。がんの方は、時折そこに参加してくるという程度です。
でも、増えているのは間違いありません。「がんでない人も見ますよ」ということで始めましたが、在宅で看取る方はほとんどがんの方です。開設して今まで40人ほど看取りましたが、5人ががん以外、35人ががんでした。

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