「がんばらない」の医師 鎌田實とがん患者のこころの往復書簡 金子淑江さん編 第3回

発行:2005年10月
更新:2013年9月

  

小さなトラブルを1つずつ克服しながら、毎日をできるだけ楽しく過ごしていこうと思います。

金子淑江さん

かねこ よしえ
広島県在住。48歳。2女の母。2001年に卵巣がんの診断を受け手術。術後化学療法後の02年再発。再手術を受け術後化学療法を受ける。04年肝転移の診断を受け、治療を続けている

がん患者・金子淑江さんから 医療者・鎌田實さんへの書簡

先生お手紙ありがとうございました。私の生き方をチャーミングと褒めて頂いて嬉しく思いました。子供たちにも「ほらね。お母さん可愛いって」と自慢してしまいました。

近況をご報告します。

6月18日、未承認薬での第1回目の治療を終え、目立った副作用も、強い骨髄抑制もありませんでしたが、私の全身状態は明らかに悪くなっていました。

6月25日緑色の胃液を吐きました。胆汁が混じっているのです。腹水に次ぐ、通過障害。これまで、一般病棟での酷い死に何度も出合っている私は、自分自身の死をシミュレーションしてしまいます。

次の治療日は7月8日ですが、私の心は揺れ始めました。(本当に治療は出来るのか?)

[ドキシル]

ドキシルは、海外の臨床試験で高い効果が認められながらも、日本では未承認であるため個人輸入して使用するほかありません。保険が利かず、1アンプルの値段が非常に高額なため、患者さんの負担は非常に大きいものでした。しかし最近になり、この費用負担を大きく軽減できるようになりました。その理由は、ドキシルのジェネリック(先発薬の特許満了後に、製造発売され有効成分、投与経路、用法・用量、効能・効果が同等である医薬品)であるリポドクト(Lipodox)が海外で発売されたためです。2005年8月より、リポドクトは20ml(10ml)が、関税等を含めて約3万円で海外より購入でき、1カ月あたり10万円以下の負担ですむようになりました。これは、ドキシルの3分の1~5分の1の費用負担です。

私の全身状態は悪過ぎます。

先生。ASCO(米国臨床腫瘍学会)であれだけの奏効率を示し、使わずに死ぬのは勿体ないとまで言われたドキシル(一般名リポソーマルドキソルビシン。囲み記事参照)ですら、3クール続けてやれるだけの全身状態でなければ、効果は出ない気がするのです。

私はついに治療からの撤退を決心しました。その決心に身体が呼応するかのように熱が出てしまいました。血液検査の結果には、炎症反応も現れていました。

これまで治療に向けてバックアップをしてきてくれたN先生も、今回の治療は延期しましょうと私に言いました。

私は頷きながら、これから先も、もう治療はしないと強く思っていました。

私は既に自分の病状のプロセスを、緩和ケアへとシフトチェンジしていました。再発してからずっと思っていたことです。

とても治療できそうも無い体力で、治療をして酷い死を迎えるのだけは絶対に止めよう。最後は治療の無い穏やかな日を家族とゆっくり過ごそう。

でも、現実は少し違いました。

最後まで治療をするのは治りたいからでも、延命したいからでもありませんでした。

それはただ、目の前の苦痛から逃れたいがためだったのです。

プロセスにのっとり緩和ケア病棟へ

私は自分の周囲の人たちに、治療を止めること、今後は県立病院の敷地内にある緩和ケア病棟に移って、夏休みを子供たちと過ごすことを、目標にすると伝えました。

この緩和ケア病棟は1年前、緩和ケア支援センターを併設した施設として、オープンしました。まだ、新しい、充実した施設で、私たち親子には願ってもない環境です。

しかも1年前のオープンのフォーラムでは、患者の立場から話させて貰ったり、地元の雑誌に取材記事を書いたりしたので、馴染みがありました。

環境が変わるとき、そこについて情報が多いほうが安心でしょう? スタッフの中に知っている人がいるというのも強みでした。

しかも、私は自分の中で、病状のプロセスがここまで進行したら、緩和ケアを利用するという目安をあらかじめ持っていたので、動きはとてもスムーズでした。夏休みに入るためには少し早めに外来に行って、紹介状や画像の資料を提出、ベッドの空きを待たなくてはいけません。

20日には入れることが決定しました。一安心です。

けれどこのあと、私をとんでもない大ピンチが待っていました。

ICUでは心細さから妄想を見ました

鎌田先生。

がんという病が、私のような進行状況にあるとき、常に死と隣り合わせということを、少し忘れていたのかもしれません。

20日をめざして体調を整えていた私は、カリウムの数値が上昇。GI療法(グルコース・インスリン療法。カリウム値を下げるために行う)を試みますが効果が上がらず、本来5.2まででなくてはならないカリウムの数値が10を超えました。

先生。カリウムが高くなると心不全を起こして、人は簡単に死んでしまうと聞きました。尿も2ccしか出ていなかったそうです。いわゆる、尿毒症という、あれですね。

私たちはすぐに決断しなければなりませんでした。急性期の透析をするというのが、その打開策でしたから。

私はそのときの自分の足を見ないでよかったと思います。もし見ていたら、その時点で死んでいたに違いありません。パンパンに浮腫んだ自分の足に驚いて。

一般病棟で亡くなっていった仲間の多くは、最後、足の甲がぱんぱんに浮腫んでいたので、患者仲間にはそういう認識が染み付いていました。

私はICUで透析を受けることになりました。その頃は尿毒症のため、意識が半分朦朧としていました。ICUというのは機械の音だけが響いて多くが重傷者ですから暗闇です。そんな中にいるととてつもなく孤独になって、たった1日しか居なかったはずなのに3日も4日もそこにいるような感覚だったのです。

目が覚めて、時間を聞いても時間の経過が普通ではなく、いつまでも1日が終わらないような感じです。家族が来たかどうかを尋ねてもよく分からない状態でした。

その間、幾つもの妄想を見ました。

私は、「家族にも会えない心細さからこんな所に居たら死んでしまう、こんな効果の無い治療はもう止めて子供たちのところに帰らせて下さい」と懇願しました。

看護師さんは、私の話を聞くと明日の朝、先生にそのことをちゃんと話してあげるからと私を落ち着かせてくれました。

少し冷静になってみると、今の治療が効果が無いなんて誰かが言った訳ではありません。あのときは透析の為に取っていた首の点滴ルートの止血が甘くなっていて、首から少し出血したのがショックだったのと、そのショックで背筋がゾッとして私がもう死ぬと思い込んだのが原因だったのかもしれません。

友人が心配して面会時間外にも関わらず、ICUに来てくれたときも、1分だけの約束だからと入って来た彼女の手を握って、「どうか私をここから出して、置いて帰らないで、1人にしないで」と握った手を離さなかった位ですから余程怖かったのでしょう。

あとで、よくよく聞いてみると主治医のN先生は、何度もICUに足を運んで途中の経過を話してくれていたし、家族も面会時間には来てくれて話しさえしていたのでした。

でも、そのときの私は、ただただ子供の顔や、のぶちゃんの顔が見たくてたまらないのでした。

今が一番手をつないでいる時間が多い

のぶちゃんのことを少しお話しさせて下さい。

彼とは、籍こそ抜けてしまいましたが子供を通じた絆というのが在るのだと実感しています。

卵巣がんと判ったとき、上の娘がすぐにお父さんに知らせようと電話をしてくれました。

闘病生活になれば子供の面倒も見られないし、子供のことを頼めるのは彼しかいませんでしたから。彼はすぐに私の元に駆けつけてくれ、「治療に半年から1年掛かる。それでも治ればね」と少し自虐的に言った私に「治るよ」と涙ぐんで言ってくれました。彼のその言葉は、ずっと支えでした。

そして、初発の實解後「自分より先に死ぬな。娘の結婚式とかママがいないと困る」とか、今回の危機のときは「最後には自分にSOSを出すように、子供のことは心配しなくていいから」と胸の奥がツンとなる様なことを言ってくれました。

あとのことを色々心配する私に、「そこまで心配しなくて大丈夫だから」と安心させてくれ、毎日のように手を握り合って話をしました。

「昨日より今日のほうがずっと力が入るようになった」その感触を通じて私の回復を喜んでくれました。

私は思わず「付き合っていた頃より、新婚時代より人生の中で今が一番手をつないでいる時間が多いね」と笑ってしまったほどです。

私の回復の影にはこうした家族の支えがあったのです。だからこそ危機を乗り越えて蘇ることが出来ました。多くの支援をしてくれる人たちには、もちろん感謝をしていますが、家族の有り難さをしみじみと感じました。

今日も生きている それだけで幸せな気分

私はICUの中でも「ここで死ぬ訳にはいかないので足を踏ん張らせてください」と無意識に叫んでいました。

子供と緩和ケアへ行く約束をしていたのでICUで死んだりしたらどんなにか怒られると、怖かったのです。

そのおかげで復活することができました。透析に反応した私は、ようやくカリウム値が下降、棺桶に片足を突っ込んだ状態からこの世に戻ってきました。

それからは、毎日回復を目の当たりにする日々でした。手に力が入るようになったとか、自分の力で立てるようになったとか、1つひとつのことが大きな喜びでした。

毎朝目を覚ますと(ああ今日も生きてる)という、それだけのことでとても幸せな気分になるのでした。

腎ろうを造ったときは、同じ姿勢を保つのが苦しくて何度も先生に「早くして」と言って困らせましたが、無事にできたら今度は延期された25日の緩和ケアへの移動を目指して準備が始まりました。

緩和の精神はどこにでも根付かせることができる

総合病院のスタッフは先生を始め、どの看護師さんも素晴らしいケアをしてくれました。婦人科の一般病棟でありながら、緩和ケアに負けないきめ細やかさでした。どんなときにナースコールを押しても嫌な顔ひとつせず対応してくれ、「金子さんのおかげで、色々勉強になりました」と言ってGI療法の勉強をしたことなどを話してくれました。

私が治療した未承認薬についても私のところに話を聞きに来てメモを取って帰っていた人もいました。皆それぞれ自分の夢を目指している姿が見られ、とても爽やかでした。それを私のところに来て語ってくれるときには、皆生き生きとしていました。向上心のある素晴らしい看護師さんたちとの出会いでした。

私は今回、一般病棟にも緩和ケアの環境が必要だと痛感しましたが、緩和の精神はどこにでも根付かせることができると強く思いました。

けれども私は、子供たちと一緒に過ごす環境を求めて緩和ケア病棟を目指しました。25日当日、総合病院のスタッフ皆に見送られて、ようやく緩和ケア病棟に移ることができました。車での1時間は長い道のりでした。当日はとても暑い日で、電車道のデコボコがお腹には少しこたえたかもしれません。

さあ、新しい病院で新しい環境で、私の次のプロセスが始まります。初めはやはり、移動して来たことで血尿が増えたり、新しい環境でリズムを作るまでに少し時間が掛かりました。子供たちは毎日泊まってくれますが、2日もすればケンカを始め、なかなか理想通りにはいきません。

それでも、上の娘(看護学校1年生)が看護師さんを手伝って清拭をしてくれたり、飲み物だけは少し飲める私に生ジュースを作ってくれたりするのを見るのは幸せなものです。

私が吐いているとき、下の娘が背中を撫でてくれると(ああこんなこともしてくれるようになったんだなぁ)と彼女の成長振りが嬉しくもあります。

まだまだ、ここでの生活は始まって間がありませんが、小さなトラブルを1つずつ克服しながら毎日をできるだけ楽しく過ごしていこうと思っています。

金子淑江

鎌田實様

  

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