「がんばらない」の医師 鎌田實とがん患者のこころの往復書簡 金子淑江さん編 第4回

発行:2005年11月
更新:2013年9月

  

最期まで自分らしく生き抜いた卵巣がん患者 金子淑江さん

がん患者・金子淑江さんから 医療者・鎌田實さんへの書簡

鎌田先生。

先生、いつも私を勇気づけて下さってありがとうございます。先生のお返事とともに、素敵な風景に、そしてもちろん先生のお姿にも癒されています。こういったら失礼になるでしょうか。先生のお顔は、いつも温かく穏やかで、凛として涼しげなイメージのスーツとのコントラストに、何かしらさわやかさを感じます。

上から7月広島県立病院緩和ケア病棟病室にて家族とともに
上から7月広島県立病院
緩和ケア病棟病室にて家族とともに

また、引っ越しです。もう夏休みも終わります。子供たちは、学校へ通うという日常の中に戻らなくてはなりません。それで私は、今まで入っていた家から遠い緩和ケア病棟から、また家の近くの総合病院に戻ろうと考えたのです。でも、少し焦りすぎたかも知れません。早々に引っ越しをしたあとで、ちょっと後悔をしました。

人は1度最高のケアを受けると、それになれてしまうのですね。ベッドが手動なのも、幅が狭いのも、何もかもが気になって、私は移ってきた初日に帰りたいとベソをかいてしまいました。

今は少し思い直して、こちらで個室の空きができたら、そこに入って子供たちの学校が始まってからの様子を見ながらまた考えようと思っています。

――がんばらない極意

昨年夏、道後温泉にて娘たちと
昨年夏、道後温泉にて娘たちと

前回、ICUに入ったときに、私は「ここで死ぬわけにはいかないんです」と言って足を踏ん張った話をしましたが、そのとき気付いたんです。私はいつもこうしてがんばってきたんだな、と。

主役を張って、常にがんばってきたのでしょう。母として、女として、また患者としてもがんばるしかないと思いこんでいるのでしょう。そうやって自分で自分を追い込み、いろいろなしがらみに身動きできない状態を作り出していたのだと思います。

でも、いつも主役でいる必要はないと気付いたのです。のぶちゃんに付き添ってもらってICUから出たあと、透析を受けに行ったとき、私は、「今日はこの人工透析を受けに来た1人のがん患者の役をやってみよう」と言う風に考えました。

そうすると、周りの景色がなにかすべて違う風に見えてきたのです。私は主役ではなく、この風景の片隅にいるただのがん患者です。今日は、痛い痛いと泣きわめいている人もいるので、その人が主役なのかも知れません。そう思った私は肩の力が抜けてとてもリラックスできました。

昨年3月長女の卒業式、教室にて
昨年3月長女の卒業式、教室にて

(編集部注:ここでテープは終わっています。このテープを吹き込んだ数日後、金子さんは息を引き取られました)

ほんとうによくがんばった。もう、ゆっくりと休んでくださいね

馬庭恭子さん

まにわ きょうこ
広島県生まれ。広島大学文学部卒業。86年山口県立衛生看護学院卒業。96年聖路加国際看護大学大学院看護研究科博士課程前期終了。97年日本看護協会専門看護師に認定。86~94年広島総合病院山科病棟健康管理課にて訪問看護従事。96~02年広島YMCA訪問看護ステーション・ピース所長。05年現在広島市議会議員。広島YMCA訪問看護ステーション・ピース教育担当

文:馬庭恭子 ウィメンズ・キャンサー・サポート、広島市議会議員

金子さんが亡くなられてもう、10日が過ぎました。日々の生活のなかでご家族の皆さんはどのように生活されていらっしゃるのかと電話をしてみました。上の娘さんが「きょうは運動会で徒競走を応援しに行きました。午後にもう一度出番があるから見に行こうと思っています」と明るい声でしたので安心。病棟ではいつも2人姉妹できゃきゃと過ごしている風景をみて、悲しみを表現できにくい子どもたちにどう接したらよいのかと、私はおかあさんへ手紙を書くことを提案しました。

小学6年生の娘さんは真剣に考えながら、一字一句間違えないように丁寧に書きました。「きっと読んでくれるからね、何度も読んでくれるからね」と、声をかけながら側にいると「書けた!」。私はその文章力と内容に驚きました。そこには母親へのいたわりと感謝の言葉がならんでいました。ちゃんと状況を理解しているのだと感心し、とてもいとおしく思いました。

同じがん患者として意気投合して

金子さんと私は4年のお付き合いでした。同じがん患者として、意気投合して、私が立ち上げした婦人科がんの患者会では事務局のお手伝いや、会での積極的な発言で、他の患者さんへの相談にも応じてもらっていました。ユーモアがあり、いつも前向きな勉強家で、いつのまにか医療情報を獲得して、少しでも治療に役立てようと必死であったことは側でみていてよくわかりました。

彼女から医療全体に対する不満や医療従事者に対しての要望などたくさんのことを聞きながら、たしかに改善していかなくてはならないことがあり、看護職としても肩身の狭い思いをしたものです。

「どうしたらいいかね。私ってわがまま?」といいながら、彼女は自分自身の道を模索していったのだと思います。私も患者ですが、どうしても医療界の現実やしくみなど知っているゆえに彼女の意見に同調できるところと、また、できないこともありました。

しかし、彼女はどんどん前に進み、そのエネルギーはいったいどこから湧き出るのだろうかと。ちょっと、目を離すと手の届かないところにいってしまいそうで、ブレーキをどうかけようかと思うこともありました。

最期までよりよく生きるために

再発し、自分のいのちをかけて「1日でも長く生きたい。娘のために」と、ただただ一心の気持ちがあったのだといま、理解しています。

6月長女の成人式前撮り、写真館の前にて
6月長女の成人式前撮り、
写真館の前にて

成人式の前撮りをした娘さんの写真を満面の笑みでみながら、「下の娘が成人した姿も見たかったな」とつぶやいていました。親として当然の気持ちだったと思います。

だんだんとがんの進行でベットに臥している時間が多くなり、自由に動けないもどかしさや「そばにずーっと誰かにいて欲しい、さびしい」という彼女の言葉が聞かれるようになりました。がん患者として、この世をさらなければならない無念さもあったでしょう。

緩和ケア病棟での夏休み期間をこどもたちと過ごし、再び家の近くの病院へ戻り、また、緩和ケア病棟で過ごすその過程のなかには彼女の病気の進行に合わせてよりよく最期まで生きるための迷いと選択のあらわれだったと思います。

本当に多くの人に支えられて

セデーション前の家族だけでの語らいやお別れは、残された家族にとってはかけがいのないものになっていると思います。そのときに2人の娘さんを元夫に託され、許しや和解もなされたと信じています。

4年間という時間のなかで金子さんを支えてくださった方はたくさんおられます。治療に専念できるようにカンパを呼びかけてくださった方、実際にカンパしてくださった方々、通院、外泊時に病院までタクシーがわりで送り迎えしてくださった方、留守家庭に手料理を届けてくださった方、病室で付添いをしてくださったご友人やボランティアの方、治療中の側にいてくださったボランティア看護師さん、相談にのっていただいた弁護士さん、本やCDを届けてくださった編集者の方、大好きなスターのサインをもらってくださったマスコミの方などたくさんおられます。

彼女のオーラに惹かれてのことだと思います。さらに抗がん治療病院では励ましながら治療してくださった先生、看護師さんや同病の患者さんとそのご家族、緩和ケア病棟では、熱心に話しを聞いてくださった先生、黙ってこまめに行き届いたケアをしてくださった看護師さん、綺麗な音楽を部屋で奏でてくださった音楽療法士さん、湯のみやキーホルダーを一緒に作った作業療法士さんなどなどほんとうにプロに支えられたと思います。

ひとりの人間がこの世を去るまでにはいろいろな出会いと別れの連続ですが、みんなが金子さんに出会えていろいろな学びがあったと思います。

いまでも「私ってわがまま?」って茶目っ気たっぷりの笑顔が浮かびます。ものすごい頑張りだったと思います。ほんとうによくがんばった。もう、ゆっくりと休んでくださいね。

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