待ち構えて受け入れたがん 準備にも治療にも悔いはなし 父親に続く前立腺がん、全摘出を選んだ一橋大学元学長・石 弘光さん(77)
一橋大学名誉教授。1937年東京生まれ。61年一橋大学経済学部卒業。大学院、助教授を経て同大教授。専門は財政学。98年から一橋大学学長。ほかに放送大学学長、政府税制調査会会長、国立大学協会副会長などを歴任。著書も多く、毎日エコノミスト賞など受賞多数。近著に『国家と財政 ある経済学者の回想』(東洋経済新報社)
いつかは闘わなければと覚悟していた前立腺がんが発見されたのは、2009年だった。石さんは20歳代で、父親を前立腺がんとの厳しい闘病の末に失っていた。検査値に一喜一憂するだけでなく、自らの体を冷静に分析し、自分で判断して全摘手術を受けた。
父親は進行前立腺がんと闘った
「父親を見ていたので、準備万端でした」石さんは、10年以上〝その日〟に備えてきた。父・三次郎さんは、東京教育大学(現・筑波大学)の教授だった。前立腺がんが見つかったのは、1963年、三次郎さんが63歳のとき。石さんはまだ一橋大学の院生だった。
「当時から考えると、今のがん治療の進歩は信じられません。PSA(前立腺特異抗原)検査もなかったし、爆発するまで気づかない時代でした。お腹を切ってみて初めて状況に気づくような……」
三次郎さんは、尿が出なくなったことで病院に行った。前立腺肥大症だとばかり思って開腹手術をしたら、すでに骨髄まで転移している末期の前立腺がんだった。ホルモン治療と放射線治療がとられた。入退院を繰り返し、状態が良いときには、自宅で自叙伝の口述をしていたが、発病から5年後、体中の痛みを訴えながらやせ細って亡くなっていった。
一橋大学学長のとき 独自の手法で成果
国立大学の附属学校から「経済を学びたくて」一橋大学に進んだ。財政学を専門とし、一橋で講師から助教授、教授へと研究の階段を上がり続けた。その一方で、「前立腺がんのことは、常に頭にありました。家族に前立腺がんが出た場合は、自分も罹患する可能性が高いですから。病状や治療法も勉強しました」
30歳から人間ドックを毎年受け始めるが、そのころは前立腺については前立腺肥大症が対象で、直腸の触診が主流だった。90年代、PSA検査が普及し始め、前立腺がんへの関心が高まった。石さんは2000年代に入って、主治医としてがん研有明病院の福井巌医師と出会い、ホンネでがんについて語り合う仲になった。
体のチェックを行いながら、石さんは経済学の権威となっていった。1998年から一橋大学の学長を約6年間務めた。国立大学の法人化という変化の時代にあたったが、海外留学生専用のキャンパスを設けるなど、独自の発想で母校の経営に手腕を発揮した。そして、2000年からは小泉純一郎内閣で政府税制調査会の会長を務め、かねてからの主張である増税を訴えるなど、存在感を示し続けた。
がんを追っかけ回し 発見時は「やれやれ……」
がんが発見されたのは、放送大学学長を務めていた09年8月だった。
PSA値は1~3以内と、危険値である4よりは低めだったが、それを楽観するだけでなく、エコーやMRIなどによる検査も積極的に受けていた。2度目の生検の結果を見た福井医師から「残念ながらがんでした」と病名を告げられた。しかし、ショックは受けなかった。
「告知という感じはしませんでした。いつもの年のように検査の結果を聞いたにすぎません。私はある意味で〝がんを追っかけ回してきた〟ようなものです。発見したときは、やれやれと思いました。怖いとは思っていませんでした。福井先生には早期に発見して頂き感謝しています。前立腺がんを研究すればするほど、早期に発見すれば大丈夫と思っていましたから。そのときがいつ来るのかだけが問題で、やっと来たかという感じでしたね」
自ら選んだ全摘出手術
病期はTNM分類でTⅡaからTⅡb(前立腺の片葉にがんがある)とされた。転移はしていなかった。悪性度を示すグリソンスコア(最高10)は6で悪性度が低いこともわかった。
医師との密なコミュニケーションを経て、石さんが希望したのは、開腹による前立腺の全摘出手術だった。放射線治療やホルモン療法、部分的な切除もあり得たが、周囲の神経も含めて関係部位はすべて取ってもらうことにした。一方で排尿に関係する尿道括約筋温存に対する配慮をお願いした。このとき72歳。男性機能は失っても、尿失禁が続くことは避けたかった。
「妻も賛成してくれました。良かったと思う。神経を残したことが原因でがん細胞が残り、死んでしまうこともありうるからです。父のころは、がん告知は死刑宣告でしたが、今は違います。がんも一般の病気と同じ。悲観的に考えることはない。発見されたら、最善の治療を探さなければならない」
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