渡辺亨チームが医療サポートする:乳がん脳転移編
サポート医師・渡辺亨
医療法人圭友会
浜松オンコロジーセンター長
わたなべ とおる
1955年生まれ。80年、北海道大学医学部卒業。同大学第1内科、国立がん研究センター中央病院腫瘍内科、米国テネシー州、ヴァンダービルト大学内科フェローなどを経て、90年、国立がん研究センター中央病院内科医長。2003年、山王メディカルプラザ・オンコロジーセンター長、国際医療福祉大学教授。
現在、医療法人圭友会 浜松オンコロジーセンター長。腫瘍内科学、がん治療の臨床試験の体制と方法論、腫瘍内分泌学、腫瘍増殖因子をターゲットにした治療開発を研究。日本乳癌学会理事
サポート医師・多湖正夫
東京大学医学部付属病院
放射線科講師
たご まさお
1965年生まれ。91年東京大学医学部卒。放射線科研修医に。99年医学博士取得。
東京大学医学部付属病院放射線部助手2001年11月同放射線科講師。モットーは「患者さんに納得していただく治療」
リンパ節、肺、肝、脳。次々に起こる転移に患者は途方に暮れる
神田美津子さんの経過 | |
2004年 10月 | 右乳房外側にステージ2Aの乳がん発見 |
11月15日 | 乳房温存療法により部分切除、腋窩リンパ節郭清 |
29日 | CMF療法開始 |
2005年 3月 | 鎖骨上リンパ節転移を発見 |
4月1日 | ハーセプチン治療開始 |
10月 | 肝転移発見、タキソールを追加治療 |
2006年 4月11日 | 脳転移発見 |
早期の2A期乳がんで乳房温存療法を受けた主婦の神田美津子さん(41歳)は、術後抗がん剤治療の全コースがまだ終わらないうちにリンパ節と肺への転移が見つかった。
分子標的薬のハーセプチンでそれは劇的に消えたものの、続いて肝転移、脳転移まで発見された。
予想を超えて恐ろしく進行の早い乳がんに対して、どのような対策が考えられるだろうか。
術後抗がん剤治療を受ける
2004年10月、中部地方のT県S市に住む主婦の神田美津子さん(41歳)は、市の行う乳がん検診を受けた結果、右乳房の乳首の外側にがんが見つかった。美津子さんの家族は、3歳年上の高校教師の夫、潔さんと、中学2年生の長男、小学5年生の長女の4人家族だ。腫瘤の大きさは2.2センチ、リンパ節転移や遠隔転移はなく、*TNM分類ではT2N0M0で、病期はステージ2Aと比較的早期の乳がんだった。
11月15日、S市民病院の外科で乳房温存療法により部分切除を行い、わきの下のリンパ節の郭清手術(腋窩郭清)を受けた。
手術から1週間で退院、その後5週間で計25回通院しながら右乳房への放射線治療を行っている。放射線治療の終わりが近づくと医師は美津子さんに、「術後に行う抗がん剤療法について相談したい」と話した(*1術後薬物療法の選択)。
「手術で切除した標本の病理検査の結果が出ています。リンパ節転移や遠隔転移はありませんでしたが、がんの顔つきがグレード3といってあまりよくありません。再発リスクはそれほど高いとは思われませんが、目に見えないがんが全身に散らばっている可能性がありますので、薬物治療をしたほうがよいと思います。神田さんの場合、ホルモン受容体はエストロゲンもプロゲステロンも陰性で、ホルモン剤は効かないタイプの乳がんです(*2乳がんのタイプと術後薬物療法の種類)。標準的な抗がん剤治療を行いたいと思います。もちろん、それでも再発する人がいないわけではないことはご承知いただかなければなりませんが」
じつは美津子さんの母、多美子さんも13年前、50代前半で乳がんの手術を受けていた。再発・転移と入退院を繰り返すなかで、長期に渡って抗がん剤治療を受けている。様々な副作用に苦しんだにも関わらず、がんは進行し、多美子さんは60歳で死亡した。
そうした経験から、美津子さんは「抗がん剤は副作用ばかり強くて、効かない」という印象を持っていた。だから、自分も医師から抗がん剤を勧められてもなかなかすぐに受け入れる気にはならなかった。しかし、夫の潔さんはこう説得した。
「子どもたちはまだまだ手がかかる状態だから、何とかがんを完全に治してしまおうよ。きっとうまくいくよ」 こうして美津子さんは抗がん剤治療を受けることにしたのである。ただし、医師に「髪の毛が抜けるような抗がん剤だけは避けて欲しい」と希望した。医師は、「脱毛の心配はあまりありませんよ」と言い、CMF療法(*3)という治療法を試みることを告げた。
*TNM分類=Tは腫瘍の大きさ、Nはリンパ節移転の有無、Mは遠隔転移の有無
抗がん剤治療の最中に再発
CMF療法は、美津子さんが気にしていたほどの副作用を感じることもなく続いた。ところが、まだこの治療の全コースが終わっていない2005年3月、点滴を受けに市民病院を訪れるとき、美津子さんは医師から前回の血液検査の結果を告げられた。
「腫瘍マーカーのCEA、CA15-3が上昇していますねえ(*4乳がんの腫瘍マーカー)」
前回の外来のとき、美津子さんは「何故採血などするのか?」と気になっていた。
「再発かもしれません(*5乳がんの再発と転移)。診察してみましょう」
医師は美津子さんの右鎖骨上の窪んだあたりに手を伸ばして触診を行う。
「ああ、リンパ腺にしこりがありますね」
その部分については、美津子さんも最近違和感があった。
「エコーで診てみましょうか」
医師は美津子さんに、超音波装置を置いた診察台に横になるよう促す。丹念に探触子(プローブ)を当てていくと、画面には黒く抜けた部分が映し出される。
「ああ、やはりありますね。転移のようです」
続いて医師はやはり前回の外来のとき撮影した胸部X線写真を見ながら、こんな指摘もする。
「ああ、肺への転移も見られるようですよ。ここに影が映っていますね」
「最近お咳は出ませんか?」
そう言われて美津子さんは気づいた。
「ええ、そういえば、ちょっと……」
そのとき、胸に何かがつかえたような気分になり、彼女はコンコンと咳をした。
「やはり間違いないようですね」
CMF療法は間違いだったのか
「そんなバカなことがあるか。手術から半年で転移なんておかしいじゃないか。しかも、まだ抗がん剤治療が続いている最中だというのに」
美津子さんから乳がんの再発を告げられたとの報告を受けた夫の潔さんは、市民病院への不信感を露わにした。そして、
「治療を受ける前に、1度よその病院で診てもらったほうがいいのではないか」とセカンドオピニオンを勧めた。しょげ返っていた美津子さんだが、ハッと思い出した。
「私も市民病院ではこのまま治療を受ける気にはならないわ。以前、富士子さんが入院していた県立がんセンターはどうかしら?」
美津子さんは、以前従姉が乳がんで入院し、夫と2人で見舞ったことのある病院の名前を挙げた。すると、潔さんはすぐに反応した。
「ああ、あそこならよさそうだね。あのとき富士子さんは、俺たちにちゃんと自分の病状とどんな治療を受けているか話してくれたからな。あれは、医者がきちんと患者に説明しているからだと思うよ。富士子さんに担当医の名前を聞いてみたらどうだ?」
すぐに美津子さんは従姉に電話を掛けた。
「担当は腫瘍内科の沢渡肇先生よ。沢渡先生ならお勧めできるわ。相談してみなさいよ」
美津子さんはこうしてT県立がんセンターにセカンドオピニオンを求めることにした。「前医から資料を持参して欲しい」と言われており、S市民病院で提供されたカルテの写しや胸部X線写真、病理標本などを携えて、潔さんに付き添われながら沢渡医師を訪れた。
「初めまして沢渡です」
美津子さんたちに挨拶する沢渡医師は50歳前後と思われ、医師として脂の乗り切った時期であることをうかがわせる風貌である。美津子さんはすぐにこれまでの経過を話している。
「S市民病院で行った抗がん剤治療が不十分だったのではないか、という疑問を持っておられるのですね?」
「はい、結果論を話しても仕方ないのかもしれませんが……」
「確かにCMF療法に比べれば、例えばアントラサイクリン系という抗がん剤を使ったメニューのほうが、若干成績がよいというデータもあります(*6アントラサイクリン系抗がん剤)。ただ、アントラサイクリン系の場合、脱毛などの副作用もわりと強く出ます。神田さんも、『脱毛を避けたい』とおっしゃっておられますね?」
美津子さんは、「はい」と認めた。
「もしかしたらアントラサイクリン系を使ったほうが結果的にはよかったかもしれませんが、アントラサイクリン系を使っても、再発したことも考えられます。病理検査や、転移がなかったことから見ても、CMF療法の選択が不適切とは決していえません。神田さんの場合、初期治療の段階で、すでに目に見えないほど小さながんが全身に散らばっていたものと考えられます」
美津子さんは、この沢渡医師の説明に納得できた。「たとえ治療法も治療効果も市民病院と変わらないとしても、この先生の治療なら満足いきそうだ」と思えたのである。
ハーセプチンは劇的な効果を示したが…
「すぐに治療に取り掛かったほうがいいでしょう。幸い神田さんはHER2タンパクがプラス3と強陽性です。これはハーセプチンというお薬がよく効く性質のがんであることを示しているので、これを使って治療したいと思います(*7HER2タンパクとハーセプチン)」
沢渡医師はこう説明している。2005年4月1日から、美津子さんの再発乳がんの治療が始まった。週1回ハーセプチン単独の投与を受けるために通院することになった。
最初ハーセプチンの効果は劇的だった。治療から2週間経過する頃には、もう鎖骨上のリンパ節のしこりはすっかり消滅していた。5回目の治療のとき、胸部X線撮影を行うと、胸の影もまったく消えて、沢渡院長は「寛解ですね」と告げている。
ところが、10月初め頃、美津子さんは妙な疲れとだるさを覚えるようになる。そして、沢渡医師から「また、腫瘍マーカーが上昇し始めましたね」という話を聞くことになった。MRI検査を行った結果、肝臓への転移が見つかる。
このとき、沢渡医師は「タキソール(一般名パクリタキセル)を加えてみましょう」と話した。毎週のハーセプチン投与と合わせてタキソールの点滴が行われるようになった。まもなく美津子さんが恐れていた脱毛が始まり、あっという間に頭はツルツルになる。が、治療効果のほうは顕著に現れ、5回くらいの治療で肝臓の影は全部消え、体調も回復していった。
再発を告げられる度にショックを受けるが、その都度薬物治療が確実に効果を示す。美津子さんは、じょじょに「がんを抱えながらも普通の生活ができるのだ」という感覚を備えるようになっていった。
2006年4月初め、美津子さんは朝方や夕方、頭痛を覚え、気分が優れない日が1週間ほど続いていた。また、ものが二重に見えたりすることもある。「風邪かな」とも思ったが、熱を測っても平熱である(*8脳転移の症状)。
4月11日にハーセプチンとタキソールの治療のため腫瘍内科の外来を訪れたとき、美津子さんは沢渡医師に自覚症状を話すと、「MRI検査をやってみましょう」と言われた。そして、検査からものの20分くらいのうちに沢渡医師の口から結果が示された。
「脳に転移が見つかりました。小脳右半球に3センチ大の腫瘍が1個、大脳に1センチ大の腫瘍が8個あります」
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