渡辺亨チームが医療サポートする:再発乳がん編
チームリーダー・渡辺 亨
山王メディカルプラザ・
オンコロジーセンター長
わたなべ とおる
1955年生まれ。
80年、北海道大学医学部卒業。
同大学第一内科、国立がん研究センター中央病院腫瘍内科、米国テネシー州、ヴァンダービルト大学内科フェローなどを経て、
90年、国立がん研究センター中央病院内科医長。
腫瘍内科学、がん治療の臨床試験の体制と方法論、腫瘍内分泌学、腫瘍増殖因子をターゲットにした治療開発を研究。
2003年、山王メディカルプラザ・オンコロジーセンター長、国際医療福祉大学教授。日本乳癌学会理事。
腫瘍の大きさ3センチ、リンパ節への転移なし。術後の抗がん剤治療は不要?
前田久美子さん(56)の経過 | |
2001年 4月1日 | 入浴中にしこりを発見 |
4月2日 | かかりつけの内科医で「乳がんの疑い濃厚」といわれ、T医大付属病院乳腺外科を紹介 |
4月18日 | T医大付属病院乳腺外科で2期の乳がんと確定診断 |
5月10日 | 手術でがん摘出 |
5月17日 | 腋窩リンパ節転移陰性、ホルモン受容体ER陽性・PGR陽性と診断(HER-2は未検査)。タモキシフェン療法を開始 |
更年期障害の症状を軽くするため、ホルモン補充療法を受けた経験のある56歳の前田久美子さん。
入浴中乳房のしこりに気づき、検査の結果乳がんと診断。
腫瘍の大きさは3センチ、リンパ節への転移はなかった。
術後は抗がん剤治療をするものと思っていたが、医師はホルモン剤の服用を勧めた。
かかりつけ医は「がんの疑い濃厚」と
2001年4月1日、東京山の手に住む56歳の主婦・前田久美子さん(仮名)は、入浴中左乳首内側にしこりがあるのに気づいた。「何かしら」と、右手の親指と人差し指の間につまんでみると、ちょうど皮膚の中にボタンでも埋め込まれているような感触が指先にある。大きさは500円玉大ぐらい、痛みはまったくない。
「まさか、こんなのは乳がんじゃないわよね」
湯船の中で自分の心配を押し隠すかのように、独り言を口にする。
久美子さんは49歳の閉経前後の更年期障害がひどくて3年間ほど、のぼせ、発汗、不眠などの症状に苦しんでいる。そのなかで、医師が薦めるホルモン補充療法を受けたところ、それ以降は嘘のように体調がよくなり、この時期を乗り切ることができた。その後、ホルモン補充療法が、乳がんのリスクを高める可能性があるというニュースを聞くようになり、少々不安を感じていた矢先である(*1ホルモン補充療法と乳がんの罹患)。
「やっぱり、すぐにお医者さんに行ったほうがいいわ」
と、久美子さんは心配で矢も盾もたまらなくなる。が、会社勤めの夫や、すでに社会人になっている22歳と25歳との二人の娘には、「話すほどのことでもないだろう」と思い、黙っていた。
翌日、久美子さんはかかりつけの内科クリニックを訪れた。受付に出ている院長夫人は昔からの顔見知りである。挨拶もそこそこに、「ちょっと胸にしこりがあるみたい、気になるので」と話した。院長は、久美子さんを診察室に招き入れた。触診すると、口をへの字にまげ、「うーん、確かにしこりがあるね」、というと、同窓会名簿を取り出した。看護師に促され服を着ると、久美子さんは、院長の前に座った。
「T医大外科のK先生が、乳腺外科をやっているから診てもらいましょう。いま、紹介状を書くから」
「先生、どうなんですか。乳がん、っていうことはあるんでしょうか」
院長は、久美子さんのほうに向き直るとこう言った。
「がんの可能性はあるけど、断定はできない。専門家に診てもらって、必要なら、いろいろ検査をすることになると思いますから、なるべくはやく受診してください」
「きわめて早期の乳がんです」という告知
4月18日、久美子さんはT医大付属病院が開院する朝8時半に乳腺外科の外来窓口を訪れた。この日は、会社の休みを取って次女の早苗さんが付き添ってくれた。待合室には、T医大乳腺外科のK講師が書いた一般向けの書籍がおいてあった。パラパラとページをめくっても、字面を追うだけで、内容は全く頭にはいらない。早苗さんが、売店で買ってきた女性週刊誌を読みながら、時間をつぶした。2時間くらい待たされたあと、診察室に呼ばれた。中では、いかにも働き盛り、脂ののりきった感じのK講師が紹介状に目を通していた。
「しこりがあるんだって? ちょっと見せて」
こう言って触診し、すぐにK講師は告げた。
「間違いないね、がんだね。手術になると思う。今日中に必要な検査をやります。終わったら結果を説明します」
乳がんの発見に威力のあるマンモグラフィ
超音波検査に用いる装置
直接しこりに注射針を刺して細胞を採る細胞診
K講師は白衣の裾を翻しながらあわただしく出ていった。
検査が始まり、マンモグラフィ、超音波、針を刺して行う細胞診、腫瘍マーカーその他の血液検査と、夕方まで続いた。
午後5時近くなって、久美子さんは乳腺外科の診察室に呼ばれる。久美子さんが腰を掛けるやいなや、K講師は話し始めた。
「どの検査の所見でも乳がんに間違いありません。手術ということになるので、今なら、3週間後の5月10日に手術できます。どうしますか? 今日、入院の予約をしていってください」
久美子さんには、「がん」という言葉だけでも大きなショックだった。そこへK講師は畳み掛けるように、手術、そして入院の話をする。娘の早苗さんも唖然として聞いていた。
病気がどんな状態で、本当に手術が必要なのかどうかもよく説明されていない。それなのに、いきなり「入院日を決めろ」と言われても、久美子さんはとても判断できるような心理状態ではなかった(*2手術待ちの時間)。
「『まさか』と思っていたのに……。どうしようかしら?」
すぐ脇に立っている早苗さんを、すがるような目で見上げた。すると早苗さんが口を開く。
「とにかく入院の予約はしたほうがいいということなんだから、5月10日に決めておきましょうよ」
娘の現実的な対応にうながされ、久美子さんは「この上は専門家にまかせるしかない」という気持ちになる。小さな声で申し出た。
「では、5月10日にします。よろしくお願いいたします」
そこへ、早苗さんが遠慮しがちにK講師に尋ねた。
「先生、細胞診でがん細胞を傷つけると、体内にがんを撒き散らすことになるという話も聞いたことがあります(*3細胞診の穿刺と転移への影響)。もっと早く手術しなくて大丈夫でしょうか?」
すると、K講師は、ますます自信ありげな表情を浮かべたのである。
「いえ、その点はご心配はありません。細胞診でがんを撒き散らすことはありません。よろしいですか? では、5月10日に手術の予約を入れておきます。
「抗がん剤は不要」のはずだった……
これまで入院の経験もない久美子さんは、手術を待つ3週間というもの、悶々とした思いで過ごした。「K先生はあまり患者に丁寧に説明してくれない……。自分で『手術はうまい』っておっしゃっているから、大丈夫だとは思うけど……」と、思い悩んだりしている。
5月10日、久美子さんは、T医大付属病院で左乳房全切除術+腋窩(脇の下)リンパ節郭清の乳がんの手術を受けた。麻酔から覚めると、病室の中に二人の娘と夫の稔さんの姿がある。
「よかったな。がんはたいして大きくなくて、しっかり取れたらしいぞ。もう大丈夫だ」
稔さんがこう話しかけてきたとき、ようやく久美子さんは「あ、乳がんの手術を受けたのだった」と思い出した。
退院は手術から4日後。そして1週間後、この日も次女の早苗さんの付き添いでT医大付属病院の外来を訪れ、K講師の診察を受けた。
「手術の結果についてご説明しましょう。腫瘍の大きさはちょうど3センチでした。浸潤性乳がんの硬がんというタイプです。ホルモン受容体は、エストロゲンもプロゲステロンも陽性(*4ホルモン受容体とホルモン剤の適応)。がん細胞の顔つきは多少悪いけれど、脇の下のリンパ節への転移は見つからなかったので、他臓器への転移はないものと思います(*5リンパ節転移陰性の乳がん患者の予後)。今後はホルモン剤の内服で十分ですから今日薬を出します」
K講師はいつものように自信たっぷりの様子である。早苗さんが横から冷静な声で尋ねた。
「先生、インターネットで調べてみたのですが、乳がんの術後は抗がん剤治療を受けるようですが、抗がん剤はやらなくていいんでしょうか?(*6抗がん剤治療の必要性)」
にわかにK講師は、不快そうな表情を浮かべた。そして、「必要ないでしょう」と言い切ったのである。早苗さんも久美子さんも、とりつくしまがない。
病院を出て、母と娘はすぐ近くの喫茶店に入り、こんな会話をした。
「なんだか、K先生って、感じ悪いわね」
「先生もお忙しいのに、素人が口を出したりするから、ムッとなさったんでしょうよ」
「でも、本当に抗がん剤はいらないのかしら? 転移していなければいいけどね」
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