乳がんに罹患し、早期発見・早期治療の啓発に励む産婦人科医・野末悦子さん
病気を経て、患者さんのつらい気持ちを分かちあえるようになりました
野末 悦子 のずえ えつこ
1932年東京生まれ。幼時を満州国奉天市(現中国瀋陽市)で過ごす。57年横浜市立大学医学部卒業。58年東京大学医学部付属病院分院産婦人科入局、以後産婦人科医の道を進む。78年に左乳房にがんを発見、手術。97年に婦人科専門のコスモス女性クリニックを開設。その傍ら、自らの経験を踏まえながら、がんの早期発見・早期治療の啓発に邁進する日々
長い間、乳がんの早期発見・早期治療の啓発に貢献してきた産婦人科医・野末悦子さんは、ご自身も乳がんのサバイバーだ。
がんを経験したからこそ医師として、患者さんに共感できるようになったという野末さん。今年79 歳となる今でも、現役の医師として活躍する野末さんの生き方を追った。
乳がんが見つかったあと治療を拒んだ親友
今年79歳になる野末悦子さんは、更年期障害のエキスパートとして知られる産婦人科医である。現在も川崎市にあるコスモス女性クリニック院長として毎日訪れる患者の診察にあたっているが、その一方で乳がんの早期発見と検診受診率の向上を目的としたさまざまな啓発活動に取り組んでいる。野末さんが啓発活動を始めたのは、まだ乳がんに対する社会的関心が低かった1970年代中ごろのことだ。
野末さんは自らも乳がん経験者で1978年に手術を受けている。しかし啓発活動を始めたそもそものきっかけは、それではなかった。
「自分の乳がんが見つかる3年前に、K子さんという親友が乳がんで亡くなっているんです。彼女はがんが見つかったとき、すぐに手術を受けるように医師から勧められたのに、それを拒んで治療を一切受けませんでした。『がんは手術なんかしても治らない。自家製の貼り薬と玄米食などの食べ物で治す』ということが書いてある本を読んで真に受け、そちらのほうを選んでしまったんですね」
K子さんから野末さんのもとに助けてほしいと連絡が来たのは、呼吸困難をきたすようになってからだった。酸素ボンベを持って自宅に駆けつけた野末さんに、K子さんは「自然食を使った食事を提供している病院なら入ってもいい」と言うので、野末さんはすぐにつてを頼って該当する病院を探し出し、入院させた。
がんで亡くなる人を減らす活動をしようと決心
それから程なくしてK子さんは息を引き取ったが、あとにはまだ小学校に通っていた1人娘が残された。母を亡くしたその子が、心に大きな傷を負っていることを目の当たりにした野末さんは、いたたまれない思いだった。
「40歳を少し過ぎたばかりでK子さんががんで亡くなったことは、K子さん自身にとっても悲劇だけど、お子さんに与えるダメージがものすごく大きいことを痛感しました」
医師でありながら親友を何で助けられなかったんだろう。そんな思いに苛まれた野末さんは、葬儀で友人代表として弔辞を読んだ際、「がんでなくなる方を減らす活動をライフワークにしたい」と、K子さんに誓った。
新聞や放送媒体の依頼で原稿執筆や電話相談をする機会が多かった野末さんは、その言葉を守って早期発見・早期治療の大切さを説いた。
また、人に説くだけでなく、野末さん自身もそれを実践。それが、大きさ8ミリというごく初期の段階での乳がん発見につながるのである。
シャワーを浴びているとき乳房のしこりに気づく
1978年の6月下旬、家でシャワーを浴びていたとき、野末さんはアレッと思った。
「ボディシャンプーをつけて体を洗っているとき、左の乳房の皮膚の下にマーブルチョコのような小さなしこりがあることに気が付いたんです」
レントゲン撮影で8ミリの腫瘤が確認されたため、野末さんは組織診をしてもらう目的で、外科医である夫の勤務先の病院で腫瘤を摘出する手術を受けた。摘出された腫瘤はただちに神奈川県立がんセンターの病理検査にまわされ、2日後にがんであることが判明した。
夫や知り合いの医師の協力もあり、その後の行動は素早かった。ちょうどヨーロッパで開かれる周産期学会に参加することになっていたので、それをキャンセルし、横浜市内の公立病院に入院、手術を受けることにしたのだ。がんを告知されたのが月曜日で、その週の木曜日に入院することになったので、入院までは実質2日間しかなかった。そのため、その2日間は多忙を極め、自分のがんを心配している余裕などなかった。
「当時は川崎市にある久地診療所という小さな診療所の1人所長でしたから、通常の診察のほか、関係機関への連絡や復帰するまで代わりを務めてくれる先生を手配しなければなりませんでした。家に帰れば帰ったで、花などを母のところに預けに行ったりしていたので、あっという間に時間が過ぎていきました」
当時は初期の乳がんでもリンパ節や胸の筋肉まで広範囲に切除する乳房全摘手術が一般的だったので、翌日行われた手術では腋下リンパ節や大胸筋、小胸筋まで広範囲に切除された。そのあと、切除されたところに皮膚の移植が行われたため、手術は長時間に及んだ。
患者という立場になって初めて気づかされたこと
術後は切開部が痛むようなこともなく経過はおおむね順調だった。すぐに摘出物全部の病理検査の結果は出ないので、まず放射線治療が始まり、それが25回終わったころには病理検査の結果が出て、リンパ節に転移していないことがわかった。
「そのときは無駄な手術をされたという思いは全くなく、無事手術を乗り越えられてよかったという気持ちでいっぱいでした。生きている喜びのようなものがこみ上げてきて、病院の屋上から見える茜色に染まった富士山や、遠くに見える雲が無性に美しく感じられたのを今でもよく覚えています」
その一方で、医療を提供している側から提供される側になって、感じることも幾つかあった。とくにいろんな面で患者に対するフォローアップが欠如していることに対しては、何とかすべきではと思うこともあった。
「術後すぐに困ったのは腕が上がらないことでした。当時は患者に対するリハビリなどのケアがなくて、手術が終わればそれでおしまいという感じ。若い医師が毎日来て、何センチ上がるかということは聞くんですが、あまり上がらないと『それしか上がらないんですか』みたいなことは言うんですが、どうやったらうまく上がるかということは言ってくれないんです。『何だこの人は、冷たいな』って思っていました」
そのように患者として感ずるところもあったが、術後体力は順調に回復していたため、野末さんは8月4日の手術から20日ほどで退院することができた。
退院後は自宅で数日静養しながら通院で放射線治療を続け、それが9月初旬に終了すると、すぐに職場に復帰した。もちろんいくら回復が順調といっても、フルタイムで勤務するのは無理である。しばらくの間はパートタイムで応援にきてくれる医師たちの助けを借りて診察に当たることになった。
その後11月上旬になって野末さんは感染症に罹り、肺炎と診断されて入院することになったが、がんのほうは何の異常も見られないまま、ときが過ぎていった。
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