乳がんになって、生きることの大切さを知りました 40年を経て新しい形で復活を遂げた「三人娘」の今を語る歌手・園 まりさん

取材・文:吉田健城
撮影:向井 渉
発行:2009年6月
更新:2018年9月

  
園 まりさん

その まり
1944年神奈川県生まれ。62年、中尾ミエ、伊東ゆかりと共に「三人娘」結成。「逢いたくて逢いたくて」「夢は夜ひらく」「何も云わないで」などが大ヒット、園まりの世界を確立。2005年に「三人娘」を再結成。コンサート、ディナーショー、テレビなどで活動する傍ら、最近では福祉にも力を注いでいる。

乳がんを患ったことで、新たな気持ちで生き直すことを教えられた、と微笑む園まりさん。彼女はどのような道筋を経て、その心境に立ち至ったのだろう。そして、復活の陰で彼女を支えたものとは――。

直後、脳裏をよぎったのは

写真:60年代、国民的アイドルだった「三人娘」時代
60年代、国民的アイドルだった「三人娘」時代。
中央が園まりさん

園まりさんが乳がんを告知されたのは07年12月のことだった。がんが見つかるきっかけは、その1年ほど前から患っていた更年期障害。顔のほてりや寒気といった症状を緩和するため、婦人科でホルモン補充療法(HRT)を受けることになったのだが、HRTを始めると乳がんや子宮頸がんのリスクが増すという。そこで、治療前にがんの検査を受けるよう医師から勧められたのだ。

忙しさに加え、気乗りしなかったこともあり、延ばし延ばしにしていた園さんだが、自身は「がん家系」との気持ちもあって検査を受けることにした。07年10月のことだ。その結果、右の乳房にがん腫瘤らしきものがあることがわかったのだ。

「私の乳がんのタイプは充実腺管がん(編集部注・浸潤性乳管がんの一種。乳がん全体の2割強を占める)。触診ではしこりが触れることもなかったので、まったく自覚症状はありませんでした。この時期に検査を受けて本当によかった。告知されたのは忘れもしません、一昨年の12月11日でした」

精密検査の結果、幸い、がんそのものの大きさは1.5センチほど。センチネルリンパ節生検の結果も陰性、つまりリンパ節転移もなかった。

「うちは『がん家系』で、父が肺がん、母が直腸がん、姉が甲状腺がんと身内にがんが多いんです。ですからいつか自分もなるんじゃないかという不安もあったし、父に末期の肺がんが見つかってから亡くなるまで介護した経験もあったのですが、でも、いざ自分がなると、想像を超えるショックで……。不安で不安で、普段120ぐらいの血圧が、一時180まで上がってしまいました」

告知された後、真っ先に園さんの脳裏をよぎったのは2週間後に予定されていた『三人娘クリスマス・ディナーショー』。無事に乗り切れるだろうか……ということだった。

1960年代、国民的アイドルだった園まりさん、中尾ミエさん、伊東ゆかりさんの三人娘は、40年の歳月を経て05年1月に再びトリオを結成。それ以来、ソロ活動の傍ら、毎年「三人娘」揃ってのコンサートやディナーショーを全国各地で行っている。

ショーは肉体的にも精神的にも重労働だ。リハーサル開始から本番終了までほとんど立ちっぱなしになるだけでなく、歌とトークをこなし、振り付け通り激しい動きもしなくてはいけない。しかも2週間後に予定されていた『三人娘クリスマス・ディナーショー』は2日連続で昼の部と夜の部があった。

2日間で4つのステージ。園さんはがんという大きな不安を抱えた身で、それを乗り切る自信がなかった。それでも最終的にやるしかないと腹を括ったのは、中尾ミエさん、伊東ゆかりさんに事情を話せば、何かあっても2人がフォローしてくれるという友情を感じていたからだ。

時を経て深まった絆

写真:40年を経て再結成した「三人娘」
40年を経て再結成した「三人娘」。
左から伊東ゆかりさん、中尾ミエさん、園まりさん

「昔から仲がよかったかって? そんなことないです。60年代に三人娘をやっていた頃は3人共それぞれ個性が強かったですし、まだ10代の子供だったので、いいコミュニケーションが取れるわけでもなく、むしろお互いがライバル同士でした。だから、だんだんすれ違いができてそれぞれの路線を進むようになったんですね。
それが40年経って再び一緒になってみると、昔とは全然違っていたんです。40年も生きていればお互いつらいことやどうにもならないことを経験しているじゃないですか。年代も同じですから、ミエちゃん、ゆかりさんとも、お父様、お母様を亡くしているし、亡くなる前は介護も経験しています。私も父の介護をしていましたから、お互い話さなくても分かり合える部分がたくさんありましたね。それは05年1月に、40年ぶりに三人娘を再結成したとき、すぐに感じました。
中野サンプラザでのステージが最初でした。私は1994年から9年間、開店休業していたので、1人だけかなりブランクがあったんです。だから、ちゃんと歌えるか不安で、開演前、楽屋で「アー、アーッ」って発声練習していたんですよ。そしたらミエちゃんがガウン着たまま駆け寄って来て『あんたねえ、失敗したっていいんだから。あんたが間違ったら私とゆかりで面白いことやってカバーするから大丈夫、大丈夫』って。あの一言で気持ちがスーッと楽になりました。そんなことあの人が言うと思わなかったんで、自分も変わったけどミエちゃんも変わったんだなあと思いました。そういうことの積み重ねで絆が深まったんです」

園さんがミエさんとゆかりさんに電話で乳がんが見つかったことを告げたときも、2人はこのときと同じような、温もりを含んだキレのいい言葉を返してよこした。

「ゆかりさんに話したら『早期でよかったわよ。でもがん検診ちゃんと受けなくちゃダメじゃない。私、毎年受けてるわよ』って怒られちゃいました。ミエちゃんには『あっそう。でもさあ、早期なら、ポッと取ってしまえば終わりよ』ってアッサリ言われたんですよ(笑)。2人とも話が湿っぽくならないように気を遣ってくれているのが伝わってきて本当にありがたかったですね」

それでもクリスマス・ディナーショー最終本番のとき、園さんは不安が昂じてステージ開始前に吐いてしまうほどだった。しかし、いざ本番が始まると、2人に支えられ、無事乗り切ることができたのだそうだ。

画用紙とマジックペン

クリスマス・ディナーショーが終了してひと月後の昨年1月24日。園さんは聖路加国際病院に入院して右乳房にできた腫瘍の摘出手術を受けることになった。

手術の不安に苛まれていた園さんが、ようやくがんと正面から向き合えるようになったのは手術前日のことだった。

不安解消に役に立った道具は、持参した画用紙とマジックペン。ペンを画用紙に走らせながら 『手術がうまくいきますように』『どうぞお守りください』という感じで自分の気持ちを思いつくまま大きな文字で書き込んでいった。そうすることで、不思議と気持ちが落ち着いていったという。

「手術は1月25日の2時に開始されるはずでしたが、前の患者さんの手術が延びて3時間近く待つことになりました。この時間がたまらなかったです。やきもきするというか、どう過ごしたらいいかわからない。でも、こういうときこそと思い、画用紙に自分の気持ちを書き始めたら、落ち着きました」

いよいよ手術の時間になり手術室で麻酔を施された園さんは、手術台の傍らでアシスタントをしていた麻酔科の医師が「いつかぜひ、ナマで『逢いたくて逢いたくて』を聴いてみたいですね」と言ったのを思い出しながら深い眠りに落ちた。

手術は1時間半ほどで終了。園さんはほどなく意識を取り戻した。

「気がついたら、『ここ、どこなの?』って感じでした。麻酔科の先生が『逢いたくて逢いたくて』をナマで聴きたいとおっしゃったのが鮮明に頭にあったので、まずアカペラで歌ってあげようかなって思いました。ほんとに不思議な感覚でしたね」

本当に歌っていたら聖路加国際病院で後々まで語り草になっていただろうから、寸止めでやめてしまったのが惜しまれるが、この辺は歌が人生そのものでもあった園さんだけに、気持ちはよくわかる。しかし、この歌姫魂ゆえに、園さんは手術後、果たして歌手としてやっていけるだろうかという不安に苦しむことにもなるのだ。


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