肺がんが教えてくれた生きるヒント 放射線治療専門医が34歳でがんに。アフラックのCMで有名になった加藤大基さん
1971年生まれ、99年東大医学部卒業。その後、東大病院、国立国際医療センター、癌研究会付属病院などで放射線治療医として勤務
放射線科の医師である加藤大基さんは34歳のとき肺にがんが見つかった。しかもそのがんを最初に発見したのは胸部レントゲン写真を見た彼自身だった。様々な検査を受けていくうちに悪性が疑われていた。が、幸いにして転移性である可能性は低くかった。そこで加藤さんは東大病院に患者として入院し、摘出手術を受けることになった。改めて誰もが年齢に関係なくがんになる可能性のあることを認識させられた。この思いもかけない事態を加藤さんはどう受け入れ、どう対処していったのだろう。
左肺1センチ強の白いまるい影が
2006年4月、加藤さんは非常勤で勤務しているクリニックで胸部レントゲン写真を撮ってもらった。就寝中仰向けになると胸部に圧迫感を覚えるようになったため念のため撮っておこうと思ったのだ。
その程度の気持ちで受けたのだが、あがってきた自分のレントゲン写真を医師の目で見ているうちに加藤さんの視線は一点に吸い寄せられた。左肺の下葉に1センチ強の白いまるい影が映っていたのだ。
それは明瞭な形をしていた。放射線治療医として多くのがん患者を診ているので、明瞭な白い影は、良性である可能性もある反面、転移性であるケースも少なくないことを熟知していた。
大きな不安に駆られた加藤さんは、1年前まで勤務していた東大病院の上司である中川恵一准教授に相談し、同病院呼吸器外科の中島淳准教授の診察を受けることになった。
幸い、さまざまな検査を受けていくうちに転移性である可能性は低くなったため、加藤さんは東大病院に患者として入院し摘出手術を受けることになった。
激務ががん発症の原因に
肺がんと聞けば大半の人間はタバコが原因ではないかと思うが、喫煙との因果関係がわかっているのは扁平上皮がんのほうで、腺がんは、さまざまな原因が折り重なって発症すると考えられている。
加藤さんご本人はどんなことが原因と考えているか興味があったので尋ねたところ興味深い答えが返ってきた。
「一概には言えませんが、その1年前までの病棟と外来を受け持つ激務によるストレスが原因の1つになっている。
放射線治療医として勤務していたのですが、放射線治療医というのは病棟の患者さんを多数受け待ちますから24時間いつ呼ばれるかわからず、午前2時3時に呼び出されることが頻繁にあるんです。
私の場合、いったん起こされてひと仕事すると、すぐに寝付けないんですよ。だから3時、4時に戻っても睡眠をとれないまま朝になり、外来の診察をやるということの繰り返しでした。
重症の患者さんが何人もいらっしゃるようなときは、1週間に何時間寝ているのかわからないような生活でしたね。それでも大変なのは月金だけで、週末にしっかり休みが取れると耐えられるんですが、土日もいつ呼び出しがあるかわからない状態でした。
こんな、気が休まる暇のない毎日でしたからストレスが溜まります。しまいには鬱傾向になって厭世的な気持ちにまでなっていたので、でこれでは、早晩、体だけでなく、精神のほうも、もたなくなることは見えていましたから、第1線から離れようと思ったんです」
東大病院を退職してクリニックへ
2005年8月、横浜スタジアムで野球観戦
2006年年末年始に行った香港ビクトリア・パークにて
これを読むと読者のなかには加藤さんを、偏差値は高いが体力も使命感もない青白い受験エリートと想像する方がいるかもしれない。
しかし加藤さんはそのようなタイプではない。体力のほうは高校時代までは野球部で鍛え、肺がんの検査の際も肺活量は5000ccあった。これは30代半ばの数値としてはかなり多いほうだ。
また、加藤さんはステレオタイプな受験エリートでもない。1度、東大の理科2類(薬学部、農学部、理学部に進むコース)に入ったあと、ドクハラ報道に接するうちに、自分ならもっと患者さんに親身に対応できる医師になりたいと思って理科3類(医学部に進むコース)に入りなおしている。このように使命感を持って東大医学部に入るケースは稀である。
「労働環境さえもっとちゃんとしていれば、第一線でやっていたいという気持ちは強かったし、それは今でも変わりません。でも、眠れないのが本当につらくて、思考能力が低下しているのが自分でもわかっていました。
それでいながら胸水を抜くとか、中心静脈確保とかリスクを伴う医療行為をやらないといけないわけです。これって徹夜明けのパイロットが乗客の命を預かる飛行機を操縦するようなものじゃないですか。誰だってそんな飛行機には乗りたくない。私は絶対いやです。
世間一般からは医師は恵まれたエリート集団と見られているようですが、実際には医師にも開業医と勤務医があって、勤務医、とくに外科、産婦人科、放射線科などで病棟を受け持っている医師は、働きづめになりがちなんです。
ご存じないかもしれませんが、収入も世間がイメージする収入よりはるかに低いケースが多いです。それでいて、患者さんの要求が高くなって責任ばかりが重くなっているのが現状です。
昨今医師の自殺がしばしば話題になりますが、異常な高率で自殺者が出るのもそうした背景があるからなんです。
私は自殺しようとは思いませんでしたが、このままでは定年になるまでに死んでしまうという気持ちでした。そうなったら、定年後にするつもりだった歴史の研究ができなくなるので、思い切って東大病院を退職して、いくつかクリニックで非常勤の医師として働きながら、残りの時間を、古文書を読むための勉強などに充てることにしたんです。古文書の崩し文字を読めないと歴史の本格的な研究はできませんから」
その構想どおり、加藤さんは東大病院を退職し、外来のみのクリニックで患者さんの診察に当たりながら歴史の研究に取り組む環境を整備していった。しかし、そうした生活がスタートして間もなく、肺に白い影が見つかり、患者として東大病院に入院することになるのだ。
非小胞細胞肺腺がんのステージ1A
肺がんは大きく分けて小細胞性と非小細胞性肺がんに大別できるが、加藤さんのそれは非小細胞肺がんでタイプは腺がんだった。ステージは1A。ごく初期の治療は摘出手術のみで終了するが、肺がんの場合、それで根治したことにはならない。効果があることは知られていたが、抗がん剤治療は行わなかった。5年生存率はステージ1Aでも80パーセントという数字だ。これは逆に言えば20パーセントは5年後に生存していないということでもある。
どんな戦争でも前線に送られる兵士は死を覚悟して戦地に赴くが、全体の2割も犠牲になるような戦争はない。まだ34歳だった加藤さんが、死を意識するようになるのも無理からぬことだ。
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