主婦エッセイスト、ほししま ゆあさん
30歳で両卵巣・子宮を失った未婚の女性が理想の伴侶とめぐり合うまでのいばら道
「幸せな結婚」への執念を生きるエネルギー

取材・文:吉田健城
発行:2007年11月
更新:2013年8月

  
ほししま ゆあさん

ほししま ゆあ
1963年京都市生まれ。
大学卒業後、不動産会社、商社などで営業、営業事務に携わる。
1993年卵巣がん発見。
98年、結婚紹介所を通じて知り合った男性と結婚。
05年3月、ホームページを開設。
『一発逆転ホームラン 放つのはあなた!』(文芸社刊)
ホームページ『ゆあの部屋』


卵巣がんが見つかったのは今から14年前、ほししまゆあさんが30歳のときだった。

平成5年4月、土曜日の早朝、彼女は家の自室で激しい腹痛に襲われた。はじめは、前の日に食べたカニが当たったのではないかと思った。

前夜、彼女は、会社をリストラされ郷里でやり直すことになった彼と2人で最後のささやかな贅沢をしようとカニ料理を食べた。そのカニを疑ったのだが、下痢や吐気といった食中りの症状はなかった。

何か尋常ならざるものを感じた彼女は、両親が出かけていたため、隣の部屋で寝ていた妹に頼んでタクシーを呼んでもらい、近くにある大学病院の分院に駆け込んだ。

「もう痛くて歩けないので、クルマ椅子で運ばれて外科の外来で診てもらったら、お腹に腹水が溜まっていて、それが臓器を圧迫していることがわかったんです。その場で、即入院となり、週明け早々、婦人科のほうで詳しい検査を受けるように言われました」

がんであることを確信した

その2日後、ゆあさんは婦人科で詳しい検査を受けることになったが、腹部エコーを撮った際、主治医から受けた説明で、自分ががんであることを確信した。

「左の卵巣が5センチほど脹れていますね。そうだなあ、卵巣におできができているという感じなんだけど、悪性ということもありえるので、良性か悪性かを判定する検査をいくつかする必要があります」

こう言われて、すぐ、がんに違いないと思ったのは、ゆあさんの家系が「がん家系」で、祖母が乳がん、母のいとこも卵巣がんや乳がんになった人がいたからだ。

その直感通り2週間後に出た腫瘍マーカーの数値は異常に高い数字だった。

これで卵巣がんである疑いが濃厚になったため、大学病院の分院から本院のほうに移って本院の婦人科で手術を受けることになった。

ゆあさんは、主治医から手術で開腹して悪性であることが確定すれば、病巣のある左の卵巣だけでなく、右の卵巣、子宮、周辺のリンパ節、大網まで切除することになると聞かされていた。これは女性の生殖機能を根こそぎ取り去ってしまうことを意味する。大きな精神的ショックを受けて、手術の日が永遠に来ないことを願ったのではないかと想像してしまうが、実際は逆だった。

「腹水のほうは最初に1週間入院した際に、抗生物質などを投与されていったんはおさまったんです。でも、検査の結果が出てから手術を受けるまで3週間以上あったんで、その間にまた腹水が溜まりだして、しまいには妊婦さんのようになっていました。そうなると、胃も圧迫されますから食事が満足に摂れなくなるんですね。結果的に体がどんどん衰弱していきますから、こんな状態が続くくらいなら、早く手術で楽になりたいと思っていました。私の頭にあったのは、それだけです。子宮や卵巣に対する未練なんて微塵もなかったですね。

妊婦さんとがん患者が隣り合わせのベッド

待ちかねた手術の日、ゆあさんは麻酔を吸い込むマスクをつけられると同時に意識を失い、意識が戻ったのは手術室から病室に戻されるエレベーターの中だった。主治医からいわれたとおり手術は3時間以上かかったが、不測の事態は起こらず無事終了していた。

彼女が入院していた大学病院では、容態が急変するといけないので手術後、手術を終えたばかりの患者はすぐに大部屋に戻さず、24時間ナースセンターのとなりにある2人部屋に入れて、細かいケアを受けることになっていた。ゆあさんも手術後その部屋に入れられて最初の夜を過ごすことになったが、ここで耐えがたい事態に遭遇することになる。

それは、麻酔が切れたあとに襲ってくる激痛ではなかった。痛みはもちろんあったが、痛み止めの注射を打てば痛みから解放された。彼女に耐えがたい精神的苦痛を与えたのは、聞きたくなくても耳に飛び込んでくる隣のベッドの話し声だった。

「手術したあとに入れられる部屋は2人部屋なんですね。ですからもう1つのベッドとは薄いカーテンで仕切られているだけですから、話し声はすべて聞こえます。その日同室になったのは帝王切開で出産した妊婦さんだった。無事出産を済ませたあとなんで、旦那さんやご両親が手放しの喜びようでした。『よく頑張った』『どっちに似てるかな』『名前はどうしようか』と弾んだ声で話すのが耳に飛び込んでくる。子宮と卵巣をとられたばかりの人間にとって、こんなつらいことないですよ。体の自由が利けば耳を塞ぐことはできるけど、鼻にチューブが入り、腕にも点滴が繋がれているから、それもできない。こんな状況を平気で作り出す大学病院のデリカシーのなさに腹が立って、涙が止まりませんでした」

猛烈な吐き気に苦しめられた抗がん剤

写真:32歳のOL当時

32歳のOL当時。会社の同僚と。頭は抗がん剤治療により脱毛のため、ウィッグ使用

その心の傷もいえない手術から1週間後、抗がん剤治療がスタートした。手術でがんは卵巣内にとどまっていることが確認されていたが、腹水にがん細胞が存在していたこともあって、予防的にがんの目を摘む目的で行われるのだ。

今はタキソール(一般名パクリタキセル)とパラプラチン(一般名カルボプラチン)の併用療法が標準治療となっているが、平成5年当時は副作用の強いシスプラチン(商品名ブリプラチンなど)、アドリアシン(一般名ドキソルビシン)、エンドキサン(一般名シクロホスファミド)の3剤を併用するCAP療法が第1選択だった。しかも、現在のようによく利く吐気止めもまだ開発されていない時代である。ゆあさんはそれから3年間、抗がん剤の副作用に苛まれ続ける。

「聞きしに勝るとは、まさにこのことでしたね(笑)。1回の治療は、朝7時から翌日の7時まで3種類の抗がん剤を24時間かけて点滴で注入していくんですが、胃液がなくなってもまだ襲ってくる猛烈な吐気に苦しめられて、トイレに行くことさえままならない。仕方がないので、尿管のドレーンを尿道に直接つないでもらって、ベッドの上で気持ち悪さに耐えていました。しかし、夜になるとそうしていても苦しくて耐えられなくなることがある。何回ナースコールを押したかわかりません。こんなに苦しいのなら、死んだほうがマシと何度思ったかわかりません」

この24時間かけて行う抗がん剤投与は入院中3週間に1度のサイクルで行われたが、それで終わったわけではない。主治医からは、退院後も1年目は3カ月に1度、2年目からは4カ月に1度のサイクルで投与を受けるよう指示されていた。

このように退院後はサイクルが長くなったがこれで副作用が軽減されたわけではなかった。逆に回数を増すごとに抗がん剤の毒性が蓄積されるため副作用はひどくなり、抗がん剤投与を受ける度に頭髪が抜け落ち、白血球や血小板の数値も危険ラインを大きく割り込むようになった。

白血球値が2000を割り込むようになると、体の抵抗力が落ちるため外出やシャワーが禁止になるが、体力があるうちは自然に造血作用が機能して正常な白血球値の加減あたりまで回復する。しかし、抗がん剤投与を重ねるごとに骨髄の造血機能が破壊されていくのでそのうち白血球の増産を促す薬を注射しないと元に戻らなくなる。

正常値の下限である3000台まで戻るには3、4週間かかったので、会社に復職したあともゆあさんは抗がん剤投与を受ける度に、ひと月近く会社を休まなければならなかった。


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