がんになり、しなやかに生きる術を身につけた 骨髄異形成症候群を克服したプロゴルファー・中溝裕子
1965年、滋賀県生まれ。88年女子プロテストに合格し、女子プロゴルフ協会入会。90年宝インビテーショナル16位、91年東洋水産レディース13位などの成績を残す。91年、骨髄異形成症候群と診断。妹と白血球の型が一致し、97年骨髄移植を受けたが、GVHD(移植片対宿主病)のため、食道と口の粘膜に障害が強く現れ、移植後2年4カ月に及ぶ長期入院生活となる現在は復帰に向けて準備する一方、講演や子どもたちのスポーツ指導にも携わる。
プロゴルファー・中溝裕子は、がん(骨髄異形成症候群)との戦いでとことん苦しめられた。しかし、その一方で彼女ほどがんとの戦いで多くのことを学び、生きる知恵を授かった者もいない。いったい彼女は何を学び、どんな生きる知恵を授かったのだろう。
「10万分の1」の不運
中溝が血液のがんの1つである骨髄異形成症候群を告知されたのは、1991年のことだ。
前触れはトーナメントに出場中、クラブハウスにかかってきた1本の電話だった。相手は少し前に検査を受けた郷里彦根の病院の医師だった。検査の結果が出たのを見て緊急で知らせることがあるのだという。
「難しい血液の病気にかかっている可能性があるので、すぐ、こちらに帰って、ご両親と一緒に来てください」
頭の中がゴルフのことで一杯だったが、中溝はわざわざトーナメント会場のクラブハウスまで医師が電話をかけてきたことにただならぬものを感じ、トーナメント終了後、ただちに彦根に帰ることを約束した。
病院に出向くと、医師から白血病の疑いがあるので、2週間の予定で検査入院するように言われた。
それに彼女はすぐに同意したわけではない。もし2週間休めば出場資格がある「宝インビテーショナル」と「東海女子クラシック」を欠場しなくてはならない。とくに、宝インビテーショナルは地元滋賀県で開催されるので、親戚や知り合いが大勢応援に来てくれる。できることなら出場したかった。
そんな気持ちをすっぱり断ち切って、中溝が入院に合意したのは医師の口から「白血病」という言葉をはっきり聞いたからだ。
2週間の検査入院の結果「骨髄異形成症候群」という診断が下った。血液のがんである。白血病に移行する前の段階で、完全な治療は骨髄移植しかない。
10万人に1人の割合で発生することを知った中溝は、突然の我が身を襲った不幸をすぐに受け入れることができず、やり場のない怒りで一杯になった。
「私がいったい何をしたっていうの? 何でこんな病気にかからなきゃいけないのよって、音のでない声で叫んでいました。悔しさで感情を抑えられなくなり、部屋をぐしゃぐしゃにしたり、本を手当たりしだいに破いたりして暴れたこともあったし、母にくってかかったこともありました。自分が不治の病にかかったということが信じられなくて、検査の過程でミスが起き、誰かのものとすり代わったんじゃないかと真剣に考えたこともありました。でも、事実は事実です。最終的には受け入れるしかありませんでした。ほんと、あのときは、神様はなんて非情なんだよと思いました。ゴルフももうできないと思っていたので、何もする気になれず、人生終わっちゃったという感じでしたね。聞くのは悲しい曲ばっかりだったし(笑)」
体力の低下を精神力でカバー
グリーンでは力強いドライバーショットを見せた
がんを告知されたものの、症状はまだ出ていなかった。しかも、HLA(ヒト白血球抗原)検査ですぐ下の妹千佳与が同じタイプであることがわかり、骨髄移植の際はドナーになってくれることが決まっていた。
最も気になっていた2つのことがしばらく放っておける状態なので、中溝はまたプロ生活に戻ることを決意。無理はしないという条件で医師に了承してもらった。
病気の影響で体力がかなり落ちていた。ドライバーの飛距離も20ヤードくらい落ちていたが、もともと飛ばし屋で鳴らしていた人間の20ヤードダウンなので女子プロの平均飛距離くらいは出すことができた。あとは体力の低下を精神力で埋め合わせれば、十分プロ生活を続けられると考えていた。
「しばらくの間、症状が安定していたこともあって、それをあまり気にしないでゴルフに打ち込むことができました。忘れていた時期さえあったくらいです。気分を一新して出直そうと思い、平成7年から千葉の万木城カントリークラブに移ったんですが、そこでは練習を男子プロに混じってやっていました。それまでは、ハードなヤツは控えていたんで、坂道ダッシュなんかやると心臓がバクバクでしたけど、これしきのことでダメになる私じゃないんだって、自分に言い聞かせながらメニューをこなしていました。気合が入っていたのは、予選会でいい成績を出したんで、春季秋季ともトーナメントに出場できることになったからです。自分としては、2年間頑張れるだけ頑張ってみようと思っていました」
輸血しながらのラウンド
しかし、平成7年になると、骨髄異形成症候群による体の異常が拡大し、気力はあっても体がついていけない状態になっていた。トーナメントに出ても、1日目は気力のゴルフでまずまずの順位につけることが多いのだが、2日目になると疲れてしまってスコアを大きく落とし、予選突破ラインを割り込んでしまうのだ。
それを最小限に食い止めるため、体力を温存したが、それほど大きなプラスにはならなかった。
「今から考えれば、なんて無茶なことをしていたんだと思いますけど、あのころの私は命よりゴルフが大事でした。ゴルフがない自分なんて考えられなかった。それに、ゴルフをやっているときはプレーに集中できるから病気のことを忘れることができたし……。というよりは、病気を忘れたいからゴルフにしがみついていたのかもしれませんね」
それからは、目に見えて体力が落ちて、輸血が必要になった。
はじめは月2回、東京女子医大病院で輸血を受けていた。しかし、すぐそれでは追いつかなくなり、輸血をはじめて2年目の平成8年には週1回になり、さらに週2回になった。
主治医である東京女子医大病院の溝口医師からは輸血が週1回になったら骨髄移植を受けるよう言われていたので決断すべき時期にきていた。しかし、中溝はまだ自力で病気を治せるのではないかと淡い希望を抱いていた。
「骨髄移植なんか、受けるものかと思っていました。失敗したら二度とゴルフができなくなるという気持ちが強かったんです。ケガや出血には注意してましたから、生活面での支障はなかったし。それに、妹に迷惑をかけたくなかったですからね。親がどれだけ心配するだろうとも思ったし」
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