がんとダンスの間を強く、しなやかに生きるプロダンサーのど根性 肉腫という希少がんと闘いながら、治療の拠点「サルコーマセンター」設立に立ち上がった元ミス日本・吉野ゆりえさん

取材・文:町口 充
発行:2009年5月
更新:2018年9月

  
吉野ゆりえさん

よしの ゆりえ
世界ダンス議会国際審査員、日本ブラインドダンス協会理事。「ウリナリ芸能人社交ダンス部」の指導も務めた。後腹膜平滑筋肉腫との闘いは日本テレビ系モクスペ感動ドキュメンタリー『5年後、私は生きていますか?』で取り上げられた。著書に『いのちのダンス~舞姫の選択~』がある。「日本に『サルコーマセンターを設立する会』」代表 吉野ゆりえブログ

世界初、視覚障害者のダンスの祭典「全日本ブラインドダンス選手権大会」実現に奔走した吉野ゆりえさん。元ミス日本、トップダンサーとして華々しい人生を歩んできたが、「後腹膜平滑筋肉腫」を発病、再発を繰り返していた。2009年2月、希少がんであるがゆえに省みられず、標準治療も、有効な薬もない肉腫患者を1人でも多く、1日でも早く救うため、「日本に『サルコーマセンターを設立する会』」を発足させた。

がん研究会有明病院 サルコーマセンター

訃報:希少がん啓発、吉野ゆりえさん死去

突然の病に倒れた世界のトップダンサー

写真:世界のトップダンサーとして活躍していた頃

留学先のイギリスと日本を行き来しながら世界のトップダンサーとして活躍していた頃の吉野ゆりえさん

吉野さんがダンスと出会ったのは大学に入ってからのことだ。

筑波大学入学と同時に競技ダンスを始め、4年生のとき、ミス日本に輝くとともに、競技ダンスのプロに転向。大学卒業後はダンスの本場イギリスに留学し、日本との間を10年間行き来しながら世界のトップダンサーとして活躍した。

現役を引退してからも、世界中の競技ダンスを統括する世界ダンス議会の傘下団体である日本ダンス議会に所属し、競技会の審査員や司会として活躍する一方、後進の指導にもあたり、忙しい日々を過ごしていた。

35歳になった2003年10月、仕事で滞在していたオーストラリアで、激しい腹痛に見舞われ、急きょ帰国し大学病院を受診した。「婦人科の腹腔鏡手術では日本で1、2といわれる有名な先生に診てもらったら、『右の卵巣が腫れているだけ』といわれ、そうか、病気じゃないんだ、と安心しました。念のため、3カ月に1度の定期検査に通いましたが、1年以上たったとき、再び激痛に襲われ、病院に駆け込むと何と10センチ大の腫瘍が見つかったんです」

「子宮筋腫で、良性」と診断され、腹腔鏡手術を勧められた。

不安を覚えてホームドクターに相談すると、セカンドオピニオンの受診をアドバイスされて、別の大学病院を受診。やはり、婦人科の腹腔鏡手術では日本で1、2を争うといわれる医者で、今度は「良性の卵巣嚢腫」という診断だった。

「子宮筋腫でも卵巣嚢腫でもどちらでもいいわ。良性には変わりがないんだから」と、2005年2月、セカンドオピニオンを受けた病院で腹腔鏡手術を受けた。

ところが、腫瘍の存在した場所は、子宮でも卵巣でもなかった。そして、2週間後、病理検査の結果が出て、驚くべき事実を告げられる。良性と思った腫瘍は実は悪性であり、最終的に判明した病気は「後腹膜平滑筋肉腫」というがんだった。

わずか1%の希少がん

がんとは、血液がんを除くと、上皮性組織にできる「癌」(英語でキャンサー)と、非上皮性組織(筋肉・骨・血管・神経など)にできる「肉腫」(英語でサルコーマ)の2種類に分けられる。

肉腫は種類が多く50もの種類があるが、発生頻度は少なく、大人のがん全体の1パーセント程度といわれる。「希少がん」で研究者も専門医もほとんどおらず、治療法の研究も、治療薬の開発もあまり進んでいないため、肉腫は世界中で「忘れられたがん」とも呼ばれている。

そんな肉腫の中で比較的多いのが平滑筋に腫瘍ができる平滑筋肉種で、吉野さんの場合は、後腹膜の平滑筋に発生した「後腹膜平滑筋肉腫」であった。

良性と信じ込んで腹腔鏡手術が行われたので、吉野さんの体内では大変なことが起こっていた。医師の説明によると、術中の細胞診でも良性と出たので、病巣部分を骨盤内で切り刻んで吸い取ったという。おなかの中で切り刻んだので、こぼれ落ちたものもあった。そこで医師は、開腹手術をしてこぼれ落ちたものを回収し、その後抗がん剤の投与を提案した。吉野さんはわけがわからないままうなずいて、病院をあとにした。

ただ呆然としながらホームドクターに相談した。目からポロポロ涙が流れてきた。すると、ホームドクターは言う。肉腫はほかのがんよりやっかいで、はっきりと抗がん剤が効いたというエビデンス(科学的根拠)はないし、治療法も確立していない。しかも、再発や転移しやすい特徴があるため、「できては取る、できては取る」をくり返すしかないのが現状だ。「今すぐに開腹手術をしたとしても、細かく切り刻んだものがどこに行っているかもわからない。死ぬ細胞は死に、育つ細胞は育った頃、目安として半年ぐらい様子をみて、再発したらその時点で開腹手術をしたほうがいい。これから何度手術になるかわからないから」

吉野さんは、今すぐの手術と抗がん剤治療は拒否して、経過観察を選択した。

同時に、今後の治療に関してこう決意した。

「自分で決める!」

どんな結果になっても、責任をとるのは私の体。だったら自分の意志で自分の人生を決めよう。ホームドクターや主治医をはじめ、必要な情報は集め、相談はするけれども、最終的な判断は私自身がしよう。

そこで自分でも治療法を探し、免疫療法も受けることにしたが、半年後、再発が明らかとなる。

2度目の手術は2005年12月に行われた。開腹してみると、何と11カ所、50~60個ものおびただしい数の腫瘍が骨盤内で見つかった。

5年生存率7%に愕然

それでも、開腹手術によって見える限りの腫瘍は根こそぎ取り除くことができた。

退院は12月の終わり。ホッとしたのも束の間、気がかりなことがあった。それは、年末年始に帰省するかどうかである。

吉野さんは大分県の出身。今は東京で1人で暮らしているが、実家は大分にあり、母が待っている。しかし、がんのことは、兄と、ごく親しい人にだけ伝え、母には内緒にしていた。

「3人兄妹の末っ子で、2人の兄がいました。父親は中学1年のときに亡くなり、2番目の兄も高校生のときに突然死しています。兄が亡くなったとき、嘆き悲しむ母の姿を見ていたので、私ががんだと知ると、母のショックはとても大きいと考えました。術後すぐの状態では、母にもわかってしまうと思い、年末年始は帰省せず東京で年を越すことにしました」

日頃から「大輪のヒマワリのようだね」といわれるほど、明るく元気なのが吉野さん。

「私はみなさんにパワーを与えるというキャラなのに、自分ががんであると告白することで、逆に心配されるのは心苦しい。なので、ごく親しい人以外は仕事関係や友人にも、自分ががんであることを伝えないことにしました」

自称・ノーテンキで、楽天家の彼女だが、1度落ち込んだことがあった。それが、この年越しのときだ。

帰省せず、1人ぼっちで除夜の鐘を聞きながら、初めてインターネットで自分の病気について調べ、愕然としたのだ。

骨盤内に広がった腫瘍の状態は、いわゆる「がんのステージ」の3期もしくは4期にあたり、肉腫の3期以上は「5年生存率7パーセント」とあった。

「じゃあ、私はあとどのくらい生きられるの?」さすがにショックを受けて、「世界1明るいがん患者」を自負していた吉野さんも、2日ほどは悶々としたときを過ごした。


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