がんを経験したことで、何が最優先か考えるようになった 30代で大腸がんを経験したフリーアナウンサー・原元美紀さん
東京都出身。フリーアナウンサー。1992年、アナウンサーとして中部日本放送に入社。96年、フリーに転身。日本テレビ「ニュース朝いち430」初代キャスターや数々の番組を経て、現在はテレビ朝日「モーニングバード!」に出演中。08年4月、自らの大腸がんを機に、山田邦子氏、鳥越俊太郎氏らとともに、がん撲滅チャリティ合唱団「スター混声合唱団」を立ち上げる。 08年より、ブレイブサークル大腸がん撲滅キャンペーンのサポートパーソンも務めている。
原元美紀さんはテレビのリポーターとして活躍する傍ら、大腸がんの啓発活動にかかわり、30代、40代の女性に、大腸がん検診の重要さを伝えるメッセージを発し続けている。そうした活動に取り組む背景には、自分自身が早期発見、早期治療で多大な恩恵を受けたという思いがあるからだ。
仕事で受けたPET検査で……
フリーアナウンサーの原元美紀さんが大腸がんであることがわかったのは2007年5月のことだ。発見のきっかけになったのは、前年の06年7月に受けたPET検査だった。
テレビ番組で健康情報を取り上げる場合、番組のリポーターが体験取材をすることが多いが、当時専属リポーターをつとめていた朝のワイドショーで、PET検査を取り上げることになり、たまたま原元さんが実際に受けてみることになった。
「ちょうど王貞治監督に胃がんが見つかったことからがん検診に関心が集まっていた時期だったんです。とくに王さんが2年に1度PET検査を受けていたので、全身の腫瘍を簡単に発見できるがん検診の切り札と呼ばれるPET検査とはどんなものか、実際に体験してみようということになったんです」
検査の結果、原元さんは画像診断では異常が認められず、翌日の番組では「無事でした」と報告し、放送自体は終了。
しかし、それですべてが終わったわけではなかった。
PET検査に付随して行われた各種の検査で、後日異常が認められたのである。
「大腸がん検診である便潜血検査が陽性で、腫瘍マーカーの数値も高かったんです」
原元さんは大きな不安に駆られた。思い当たるふしがあったからである。
「その3年ぐらい前から、便に血が混じるようになったんです。はじめは月に1回程度でしたが、翌年には2回になり、そのころには週に1回以上の頻度で出るようになっていました。自分では痔だと思い込んでいたので、恥ずかしいから、痛みが出るようになったら病院に行けばいいと思っていました」
しかし、検査で異常が見つかったとなると、のんびり構えてはいられない。原元さんは近所にある胃腸クリニックに駆け込んだ。そこでは老齢の医師が応対し、問診の後、各種の検査が行われた。
血便を激務のせいと思い込む
結果は意外なことに、便潜血検査、腫瘍マーカーとも陰性だった。
それを見て医師は、「便潜血検査で陽性が出たのは、たまたまだったんじゃないですか、36歳でしょ。30代の女性で大腸がんという人は滅多にいませんよ」と笑顔で言った。それでも一抹の不安を拭えなかった原元さんは、精密検査である内視鏡検査を受けようと思った。
しかし、検査を受けたくても予約は一杯という状況だった。
「内視鏡検査は予約が込んでいて、緊急性が無い場合、ひと月半先でないと受けられないと言われたんです。他のクリニックにも問い合わせてみても、どこも同じ状況でした。ワイドショーのリポーターは突発的な事件の取材に駆けつけるのが基本です。仕事のスケジュールを自分では決められないので、『じゃあ、いいや。痛みもないし』と諦めてしまったんです」
胃腸クリニックで、がんではないと太鼓判を押された原元さんは、日が経つにつれ内視鏡検査を受けなければという意識が薄れ、便に血が混じるのは多忙を極める仕事のせいだと思うようになった。
当時の原元さんのスケジュールを知れば、そんな思いに傾いたことは容易に理解できる。
「私はその年(06年)の4月に、ニュースを読むスタジオ・キャスターから朝のワイドショーのリポーターに転身したんですが、忙しさは聞きしに勝るものでした。朝は4時半起床。5時半に局入りして、7時半から番組が始まります。
出演後は、翌日放送する分の取材が待っています。行き先はまさに北海道から沖縄まで。暴風雨の中で台風のリポートをすることもあります。取材が終わると局に戻って翌朝のオンエアに備えた打ち合わせがあるので、帰宅は深夜の0時か1時で、睡眠時間は2~3時間。そんな日が続いていたので、血便は職業病だと勝手に思い込むようになったんです。テレビ業界の仕事は、時間帯も不規則で、とてもハード。『血尿と血便が出たら1人前』と言われる世界なので、自分でも『あ、やっと1人前になったんだ』くらいにしか思ってませんでした(笑)」
血便はその後も続き、3日に1度くらいの頻度で出るようになった。その年の暮れには、顔色が黒ずんできて、人に会うと、真冬なのに「日焼けしてるね」と言われるようになった。それでも痛みはなかったので、原元さんはまだ、内視鏡検査を受ける気にはならなかった。
福島の取材先で起きた下血
そうこうしているうちに、原元さんは取材先で下げ け血つ してしまう。07年4月、福島でのことだった。
「出血量がそう多くなかったので、初めは生理だと思ったんですが、その後、下血だとわかりました。立ちくらみがしましたが、取材はディレクターさんやカメラマンなど、チームを組んでやるものなので、自分だけ帰るわけにはいきません。その日も何とか仕事をやり終えて最終で東京に戻りました」
翌朝、番組に出た後、原元さんは、番組のスタッフに「急で申し訳ありませんが、今日は病院に行きたいので、取材を他の方に代わっていただくことはできませんか?」と尋ねた。
しかしワイドショーの現場は慢性的に忙しい。
「明日じゃダメ?」との答えが返ってきたので、「下血してるんです」と伝えると、「そりゃ大変だ!」と深刻に受け止めてもらえた。
実は原元さんの背中を押してくれたのは、ご主人だった。「私は急がなくてもいいやと思っていたのですが、主人は気が気でない様子で『すぐに行きなよ』と強い口調で言うんです。最後には『行かないと離婚するぞ』ってプレッシャーをかけてきたので、行くしかありませんでした」
原元さんは前年の06年に結婚したばかり。ご主人の強い言葉は、妻を心配するが故のものだった。
その日の番組終了後、原元さんは、前回とは違う病院を訪ねた。
応対した医師は、問診で原元さんから前年7月に便潜血反応で陽性が出たことや、腫瘍マーカーが高かったことを聞き出すと、触診に移り、下腹部左側のS状結腸を押したとき、原元さんが痛がるのを見て、「ウン?」と怪訝な顔をした。
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