がんになって優先順位がハッキリした 悪性リンパ腫寛解後、4人目を授かる
あかねさん ECサイト「きせつ家」代表
保育教諭として働きながら3人の子育てに追われ、夫も仕事が忙しく育児参加もままならず、夫婦の会話もなくなり離婚まで考えたあかねさん。家族の時間を大切にするため、山形に移住することを決意。ところが、移住して3カ月、悪性リンパ腫と診断される。しかし、山形に移住したことで、その病気に強い主治医や教授と巡り合い、無事寛解。その地の特性を活かした仕事を始め、2024年2月には第4子を出産。
あまりにも忙しすぎて夫婦関係がうまくいかず
東京で保育教諭として14年間働いていたあかねさん。結婚後も仕事を続けながら、双子と年子の3人の子育てに追われていた。当時、夫は転職したばかりで朝は5時から夜10時まで働き、週6日は家にいなかった。
あかねさんは千葉の実家に毎週末に帰るなど、すれ違いの夫婦生活を送っていた。家族として生活できていないこと、一緒に子育てできていないことから、夫と一緒にいるだけでイライラが募り、追い詰められ離婚を考えるようになっていった。
あかねさんはそんな気持ちでいることを夫に打ち明けた。すると彼もこのままの生活を続けていては良くない、と考えていたらしくこう切り出した。
「いま続けている仕事を辞めて、田舎で暮らしたい」
その言葉を聞いたとき、初めは絶対に無理だと思ったが、〝家族〟になるにはどうしたらいいのか本気で考えた末、田舎に移住することを本格的に進めていった。
あかねさんもまた14年間、東京で保育教諭として働いてきた仕事を辞め、じっくり子どもたちと向き合う時間が欲しいと思っていたからだった。
「移住地を山形に決めたのは、旦那の祖父母の家があり、幼い頃の楽しい記憶と雪が思いっきり降ることから、四季をダイレクトに感じられるところが好きだといい、山形への移住を決めました」
そして2年かけ山形県小国町に移住することを決めた。
「2年かけたのは子どもがまだ小さかったので、親に頼らず自分たち家族だけで生活ができるだろうか、という不安があったからです。移住先がどんな場所かよくわからないし、移住してからやっぱり違うとなるのは嫌で、2年の間に3回移住先を訪れ、季節ごとの移ろいの様子や、地元の方たちとも知り合うことができ準備を整えてきました。家賃1つにしても東京では11万円かかっていたのですが、こちらでは1万程度で済むなど経済的にも助かっています」
現在、あかねさんが暮らす地区は小国町から車で15分ほど離れた場所で、集落の民家数は11軒。地区的には移住者が多く、子どもの数が唯一増えている地区で、その他の地区の小学校は町と統合されているが、この地区の小中学校だけは残っていて生徒数は27名いるという。
「双子が今年小学校に入学しましたが、1年生4名です! この学校ではすごく多いことなんです!」
移住して3カ月後にホジキンリンパ腫と診断される
あかねさんは2021年4月に家族5人で移住するのだが、移住する少し前から体に異変を感じるようになっていた。
移住する1週間前から肩こりがひどく、首の周りをマッサージしているとき鎖骨あたりに5㎜くらいのしこりを見つけ、東京の病院に診てもらった。山形に移住するならそちらの病院を紹介すると、置賜(おいたま)総合病院を紹介された。
2021年5月に紹介された病院の外科を受診し、生検したが病名はハッキリとはわからず、耳鼻科でしこり摘出、病理検査を行った。
病理検査の結果、悪性リンパ腫のうちホジキンリンパ腫(限局期)と診断された。あかねさんが山形に移住して3カ月後の2021年7月のことである。
ホジキンリンパ腫は白血球の中のリンパ球ががん化する悪性リンパ腫の種類のうちの1つで、日本で発生する悪性リンパ腫全体の5%を占めている。
悪性リンパ腫との診断を告げられたあかねさん夫婦は号泣した。
「そのとき初めて旦那が泣いているのを見たんです。それに私以上に号泣していて。『この人と子どもたちを残して死ぬわけにはいかない!』と思いました。がんになれば死を覚悟しなければならないと思っていたので、夫婦で号泣していましたが、主治医は結構あっけらかんとした言い方で『今は、がんも結構治りますから』と。それを聞いて『なんだか自分は大丈夫な気がする』と、治療に立ち向かう気持ちが湧いていました」
ただ、治療に専念するためには千葉の実家に戻り、親の力を借りて治療しなければ厳しいのではないかと考えた。その気持ちを医師に伝えると、医師からこんな答えが返ってきた。
「実はホジキンリンパ腫に強い先生(教授)は山形大学におられるので、あなたたち家族ができるのであれば山形での治療をお薦めしたい」
医師からその言葉を聞いたあかねさんは、「自分が山形に移住した意味はこれだったのかな」と思ったという。
「私が通っていた置賜総合病院は、山形大学からいらっしゃる先生が多くて連携がしっかりしているし、ホジキンリンパ腫に強い教授も毎週のように通って診てくださった。山形大学まで行かなくても、自宅から40分の総合病院でも同じ治療ができるのはありがたいと思いました」
A+ADV療法が奏功した!
7月からの薬物療法が始まる前に、あかねさんは主治医から「今後もお子さんが欲しいようなら、卵子凍結することをお勧めします。卵子凍結するには時間がかかるので1カ月治療開始が遅れます」と説明を受けた。
それを聞いたあかねさんはもうすでに3人の子どもに恵まれているから、卵子凍結はせずに自分の命の治療に早く入ろうと決めた。
主治医からいくつかの論文の話をされ、A+ADV療法についてまだ事例は少ないが、再発のリスクは少ないと思う。しかし30、40年後に腎臓に後遺症が出るかもしれないが、きっとあかねさんには適していると思うので、こちらの療法で行いたいと提案された。
「私のいま年齢を考えたときに、まだ若いので再発の恐れが一番怖い。また自分の考えをしっかりと教授に伝えられる主治医をとても信頼できたので、先生の治療提案に同意しました」
A+ADV療法は、抗体薬物複合体のアドセトリス(一般名ブレンツキシマブベドチン)と抗がん薬のアドリアシン(同ドキソルビシン)、ダカルバジン、エクザール(同ビンブラスチン)を組み合わせて使うホジキンリンパ腫の薬物療法である。
7月から1カ月入院してA+ADV療法が開始された。1カ月の入院治療後、通院治療が5カ月続いた。当初は8クール行う予定だったが、治療効果が上がり6クールに短縮された。ただ、がん細胞に対する効果はあったのだが、副作用のつらさからメンタル面でうつ状態になる時期もあった。
そんなあかねさんを支えてくれたのがご主人だった。
「お互い1年間、仕事をせずゆっくりしようと家にいたので、会話が多くなって相手が何を考えているか理解できるようになり〝夫婦〟として時間を過ごすことができました。通院治療を受けるときには、車で送り迎えをしてくれたり、体調の良いときは外へ連れ出してくれて、とても頼りになりました」
あかねさんは山形に移住したことで、すべてが最善の方向に向かっていった、と今では思っている。
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