子どもの誕生が治療中の励みに 潰瘍性大腸炎の定期検査で大腸がん見つかる
いのけんさん お笑い芸人
中学の頃から潰瘍性大腸炎という指定難病で、定期的に検査を続けていた。〝人を笑わせて有名になって、女性にモテて、お金が稼げる〟売れっ子芸人になる夢の可能性が見えた矢先に、お笑い芸人のいのけんさんは大腸がんの宣告を受ける。まさかのがん告知に、このまま芸人を続けていけるか、弱気になる彼の背中を押したのは妻のひと言だった。
ともすればお笑い芸人のがん公表はマイナスイメージを持たれがちだが、それを跳ね返す明るさで今日も笑いをとっている。
「まさか、自分が」
お笑い芸人のいのけんさんが、S状結腸がんステージ1と診断されたのは2020年9月15日のことだった。体に何か異変があって、病院を受診してがんが見つかったというわけではない。彼は中学生の頃に難病の潰瘍性大腸炎に罹患。薬を服用しながら、毎年大腸の内視鏡検診を受けていた。
潰瘍性大腸炎とは、大腸の粘膜にびらんや潰瘍ができる炎症性の疾患。血便を伴うこともある下痢と腹痛が特徴的な症状だ。原因はよくわかっていないが、発病後7〜8年すると大腸がんのリスクが高くなってくる。
S状結腸がんが見つかったのは、その定期検査のときだった。
「ですからがんと告知を受けたときには、〝まさか自分が〟といった感じでした。そして、〝自分はこれから生きていけるのだろうか〟と不安が湧いてきました」
主治医から、「手術をすれば何とかなる」と聞かされると、今度はこのままお笑いをやっていくことが出来るかなど次々と頭に浮かんでいった。
「妻にがんのことを伝えると、最初は〝えっ〜〟と驚き、落ち込んだ様子だったのですが、すぐに『あんたは折角この職業に就いているんだから、みんなに明るく説明して来なさい』と言われました。『がんになっちゃいました』と伝えれば、どうしても相手に気を遣わせることになるだろうから、こちらから暗くならないように説明しておいで、と言われました。そんなことを言える妻はすごいなと思いました」
彼は覚悟を決めて、妻に助言されたように関係者に明るく説明して回り、みんなから励ましの言葉をもらった。
「妻の言葉は、絶望の淵に立たされていた自分にとって大きな力になりましたね」と、そのときの心情を振り返った。
大腸の9割を切除する大手術
「〝どこか変だな〟と病院に行ったときにはもう手遅れになってることもあると聞いていたので、自分の体に異変を感じてないなかでのがんの宣告だったので、自分が潰瘍性大腸炎で面倒くさがらずに1年に1回検診に行っていてよかったと思いました」
最初は腹腔鏡手術の予定だったが、体重が80㎏だったこともあり、脂肪が邪魔をして内視鏡での手術は難しいとして、開腹での手術と決まった。
「当時はタバコを吸い、暴飲暴食をして朝までお酒を飲んだりしていましたね」
入院は2020年12月4日と決まった。
がんの告知から手術まで3カ月近く要したのは、大きな手術になるということで、医師たちのカンファレンスの時間や、当時はコロナ禍だったことも影響したからだ。
入院するにあたって、いのけんさんは芸人という仕事柄、自分にがんが見つかったことを世間に公表するかどうか迷ったという。
「芸人をやらしてもらっている以上、何かしら発信したほうがいいというマネージャーさんたちの声もあって、公表することにしました。でも、当時は自分ががんになったことを世間に知らせて〝芸人として笑ってもらえるのか〟という不安も同時にありました」
結局、がんを公表したのは入院したときだった。
「年末年始にかけての入退院で、日テレの『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』の年末特番の収録後の入院だったので、〝まさか自分がTVに出ている姿を病室で観ることになるとは〟という思いと、〝このまま復活はできないのかな〟という思いが交錯して、複雑な気持ちで番組を観ていました」
手術は、大腸の9割を切除する15時間に及ぶ大手術だった。一時的に肛門を閉じ、お腹にストーマ(人工肛門)を造設。1年間はパウチ(装具)を装着した生活を送ることになった。
「12月22日に長女が生まれて、入院中に長女の写真が送られてきたりすると、自分にはこの子を育てる責任があるという自覚も生まれて、〝自分ひとりの命じゃないから簡単に死んでたまるか〟という気持ちになりました。妻にはいろいろ大変な思いをさせてしまったので、退院したときに感謝の気持ちを込めてプレゼントをしました」
翌年(2021年)1月6日に退院したのだが、コロナ禍で出演していたライブなどがなくなったこともあり、本格復帰は半年後までずれ込んだ。
「その間はネタ作りや、YouTubeに力を入れ始めていたので、その更新などをやっていました。また、SNSなどでがんの公表をしたのですが、〝動画のほうがわかってもらいやすいかな〟と動画を編集したりしていました」
18歳でお笑い芸人を目指して上京
ところで、いのけんさんはなぜお笑い芸人を目指そうと思ったのか。
「昔から〝有名になりたいと〟どこか思っていましたね。でもどうやって有名になるのかよくわからなかったので、取り敢えず地元の福岡でダンススクールに通いました。僕は普通に踊っているつもりでも周りが笑っていたので、笑わせていると勘違いしていました。だから〝他人を笑わせることはなんて気持ちいいんだ〟と思ったのです。人を笑わせて有名になって、女性にモテて、お金が稼げる、その職業がお笑い芸人なんだ〟と思ったんですね。そうと決めたら、すぐにお笑い学校の資料を取り寄せて上京。気づいたら芸人になっていたということです」
18歳で上京、東京アナウンス学院芸能バラエティ科に入学。漫才コンビ「虹色ひまわり」を結成。M-Iなどに出場するが、その後コンビを解散。現在はピン芸人としてステージに立っている。
「今思えばピン芸人でよかったと思っています。僕がこの病気をして、入院したり手術したりしてお笑いの現場から離れざるを得なかったので、相方がいたら迷惑をかけてしまったと思いますから」
日常生活を取り戻した矢先、直腸への転移
退院後は3カ月に1度、血液検査やCT撮影などの定期検診を受けていたのだが、2022年5月26日に直腸にがんが転移したことが判明した。
初発のとき、がんマーカーが異常に高くなっていたことでがんと判明。だから主治医からは、もし転移するとしたら再びマーカーが高くなると言われていた。
2022年4月の定期検診のときにはマーカーの数値がぐんと高くなっていた。そこで詳しく検査した結果、直腸に転移が見つかったのだ。
「順風満帆とまではいかなくても少しずつ活動も再開できてきて、ようやく日常の生活に戻り始めた矢先だったので、〝今度こそもう終わったかな〟と思いました。それに初発のときに応援してくれたみんなにようやく治ったと報告し喜んでもらっていたのに、また、がんになったと報告しづらいと思ったり、1回目のときの手術のつらさとかを体験しているので、またあのつらさを体験するのかと思ったり……そんなことが頭のなかをぐるぐる駆け巡って絶望感に打ちひしがれました」
ストーマになる前にできなくなることをやり尽くそう
主治医からは小腸と直腸をつなげられれば永久ストーマは回避できるかもしれないと言われていたのだが、直腸の長さが足りないということや、また再発する可能性があるので永久ストーマにすることを勧められた。
いのけんさんは1回目の手術の際、一時的にストーマを造設したが、1年後に閉じて普通に排便できる体にもどっていた。
「自分としてはもちろん嫌でしたが、先生がそう言われるのなら仕方ないと受け入れました。1回目の手術の際、主治医からは『再発したら次は永久的なストーマになる』と言われていましたから。ショックはありましたが、長生きするためにと割り切りました」
手術まで1カ月ほど時間があったので、妻とどうしようかと話し合ったという。
「妻は『ストーマになったら行けなくなる場所や出来なくなることがあるから、それを全部やり尽くそう』と言って、砂風呂や温泉に誘ってくれたり、野球のヘッドスライディングをお台場の砂浜にやりに行ったりしましたね」
2回目の手術は、1回目のときより短く7時間ぐらい、入院期間も6月24日から2週間程度だった。
「最初にストーマになったときは初めてのことで大変だったのですが、2回目のときはもうパウチの手入れなど慣れていたのでそうでもありませんでした」
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