自分の病気を確定してくれた臨床検査技師を目指す 神経芽腫の晩期合併症と今も闘いながら

取材・文●髙橋良典
写真提供●浦尻一乃
発行:2024年9月
更新:2024年9月

  

浦尻一乃さん 大学生

うらしり いちの 2001年東京都生まれ。2006年12月に左副腎原発「神経芽腫」と診断され入院。2007年7月、両側副腎・左腎・腫瘍摘出手術。2008年2月退院。2011年12月、MRIで異常が見つかる。2012年1月入院。化学療法開始(2コース+4コース)2月腫瘍摘出手術。同年7月退院。現在、小児がん治療による晩期合併症として腎障害、副腎不全、腸、骨の障害の治療のため6種類の薬を服用している

天真爛漫に動き回る幼子。そんな時期、5歳で神経芽腫と診断され、化学療法、手術などつらい治療に耐え、1年2カ月の入院の末、退院することができた。しかし、10歳で再発。7カ月の入院生活ののち、退院。現在、医療系大学に通う浦尻一乃さん。自分が大学生になれるとは思っていなかったという彼女はいま臨床検査技師を目指して学んでいる。

外出中にぐずぐずと機嫌が悪かった5歳の冬休み

人々の人生模様はさまざまである。幼くしてがんに罹患し、闘病生活を余儀なくされる人もいる。

現在、医療系大学で学び、臨床検査技師を目指している浦尻一乃さんは5歳のとき神経芽腫が見つかり、そこから長い闘病生活が始まった。

幼稚園に通っていた2006年の冬休み。

「家族と一緒に出かけたときぐずぐずと機嫌が悪く、すぐに抱っこをせがんできて、母親はおかしいと感じていたそうです」

帰宅するとお腹が痛いと訴えた。翌日、地元の小児クリニックを受診するが、そこでは便秘と言われ整腸剤を処方された。

しかし、浦尻さんは幼いながらもとても体がだるくてしんどかったので、自分は絶対に便秘じゃないと思ったという。

「母が別の小児病院に連れていってくれたのですが、そこでも便秘という診断でした。だから母がお腹をマッサージしてくれました」

ところが、その夜、お風呂に入ろうとしたとき、お腹がすごく腫れているのを母が見つけ、先に受診した小児病院の救急外来に駆け込んだ。

幸運なことにその日の夜間診療の担当が神経芽腫の治療実績のある小児外科医で、おなかを見た途端「すぐに検査しましょう」と、急いでエコー検査を指示し、「左腎臓周辺に腫瘤があります。おそらく神経芽腫かウィルムス腫瘍と思われます」と言われ、生検をはじめ諸々の検査を受け、神経芽腫と診断された。

「腫瘍がお腹のなかで破裂していたそうで、便秘だろといわれてお腹を何度もぐいぐい押されたことが原因の1つではないかと思っています。治療が始まってすぐに腹水もすごく溜まって、呼吸が自分ではできなくなり、人工呼吸器に2カ月ほど繋がれたままでした。目が覚めると点滴やら体中がチューブでつながれていて、なんでこんな状態になっているんだろうと思いました」

当時、5歳だった浦尻さんはもちろん自分の病名を知る由もなかったが、両親は医師から病名を告げられていた。

5歳のとき神経芽腫で1年2カ月入院

神経芽腫の治療が始まる

神経芽腫は体幹の交感神経節や副腎髄質などから発生する小児がんの1つで、約65%が腹部で発生し、その半数は副腎髄質から発生する。主に乳児から5歳未満の子どもに発症することが多くみられる。

5歳だった浦尻さんは両親から「お腹に悪い虫がいるので、それを退治しなくてはいけない。だから入院して治療するのよ」と言われていたという。

抗がん薬4クール投与後、自家造血幹細胞移植に備えて造血幹細胞を採取、凍結保存された。

すぐ治療が開始され、まず寛解導入法として抗がん薬投与を行い、両方の副腎と左腎臓の摘出手術と術中照射の放射線治療、大量化学療法などの移植前処置をしたあと、凍結保存されていた造血幹細胞を解凍。輸注(中心静脈カテーテルから投与)する自家造血幹細胞移植を行った。

つらい抗がん薬の副作用や手術、友だちと会えない寂しさなど、まだ幼いながらにも必死に耐えた。

「化学療法の副作用で脱毛したときは、人工呼吸器を付けていたので、気づきませんでした。目が覚めて丸坊主の頭を見てビックリという感じでした。

また小児病院のルールで子どもは病室には入れません。私はひとりっ子なので友だちとは会えなくて、両親か遠方から来てくれた祖父母としか会うことはできませんでした。寂しかったのですが、当時は自分が置かれている状況が良くわかっていなかったので、耐えられたのかも知れません」

入院から1年2カ月後に退院

小学校の運動会で

両親から「お腹に悪い虫がいなくなったので、退院することができるのよ」と言われ、入院から1年2カ月後、やっと退院することができた。小学校に入学する2カ月前のことだった。

「入院中からずっとランドセルが欲しい、欲しいと思っていたので、退院できて嬉しかったですね。ずっと寝たきりだったため歩けなくなっていて、退院する4カ月前からリハビリを行って、歩けるようになったら退院ということが決まりました」

ただ、退院できて嬉しいことばかりではなかった。

「医師から体力が落ちているので過度な運動は禁止され、体育は小学校に入学してから約2年くらいは見学が多かったです」

入院する前は活発に動き回っていた子どもだったのに、退院後はうまく走ることができなくて、自分でも恥ずかしくて嫌だなと思っていたので、自分でも体育はしばらく止めておこうと思ったという。

成長過程で抗がん薬治療を受けたことで骨密度が低く、骨折しやすいというのも理由だった。

「でも主治医から動かないというのも良くないと言われて、ボールを使ったものとか、鉄棒とかできることは参加するようにしていました」

病院には3カ月に一度、定期検診のため通院し、画像検査を受けていた。

10歳のとき再発

小学4年生10歳のとき再発して入院

2011年12月、小学4年だった10歳のときMRI検査の結果、初発のときの部位近くに再発が見つかった。

1月から抗がん薬治療が開始され、腫瘍摘出手術をすることになったとき、浦尻さんは「どうせ死ぬのに、どうして嫌な麻酔や手術をしなくちゃならないの」と、手術することにかなり反抗していたようだ。

「それと手術の前に麻酔をすると眠くなるじゃないですか、それで眠ってしまうと、もう二度と目が覚めないかも知れないと、すごく怖くて嫌だからでした」

最初は手術を拒否していたものの、どんなに拒否しても手術するしかないこともわかってはいたので医師や両親の説得を受け入れ、入院して2カ月後の2月末、摘出手術を行い都合7カ月間の入院となった。

当時小学4年生だった浦尻さんは、入院中の勉強はどうしていたのだろうか。

「最初は院内学級に通っていたのですが、化学療法と次の化学療法の間は元気になっていたので、地元の小学校にも行きました。5年生に進級のとき、教科書が院内学級のある自治体の教科書になることと、退院して地元の小学校に戻るときに転校生になり出席番号が最後になるなどが嫌で、地元の小学校に進級したいと希望し、籍を院内学級から地元の小学校に移しました。そうすると院内学級の授業は受けられないので、退院までの約3カ月半は地元の小学校からプリントをもらったりして自主学習をしていました」

浦尻さんは11歳で経過良好とのことで退院する。

友だちの死をきっかけに病名を知らされる

浦尻さんはいつ自分ががんと知ったのだろうか。

「化学療法の副作用で髪の毛もなくなりましたし、手術も何回もしていたので、何となく『自分はがんじゃないかな』とは思っていました。当時から医療系のドラマが好きだったので、がんのドラマも見ていましたし。幼いながら自分もがんじゃないかなと思っていましたが、両親が何も言わないので、『聞いてはいけないのかな』と思っていました」

彼女が小学3年のとき、同じ病気で一緒に入院していた友だちが亡くなったことを母から聞かされた。

「『私の病気がこういうもので、治療はすごく大変だったんだよ。一緒に入院していた○○ちゃんも同じ病気で、実は亡くなったの』と話してくれました。そのとき自分の病気は『神経芽腫という小児がんの一種』ということを母から直接聞かされました」

母親は、娘ががんを「嫌なもの」と言ったのがきっかけで、がんをちゃんと知ってほしいと思い告知したそうだ。

母からその話を聞かされたとき、自分も死ぬ可能性があったんだな、と改めて思ったという。

「母から自分の病気を聞かされたあと、主治医から詳しく話してもらった記憶はあります。小学3年生だったので、ある程度話はわかるようになっていたので、定期外来で説明され、化学療法の影響でさまざまな合併症が出ていることも話してもらいました」

合併症については抗がん薬の影響で骨が弱いこと、腎機能障害で水分を補給することが必要、副腎を摘出しているのでホルモンの補充が必要なこと、そのために何種類も薬を飲んでいること、また晩期合併症は何年も経ってから起こることもあることも説明してもらった。

中学のとき、晩期合併症の手術のため入院中の一乃さん

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