死への意識は人生を豊かにしてくれた メイクトレーナーとして独立し波に乗ってきたとき乳がん

取材・文●髙橋良典
写真提供●池内ひろこ
発行:2024年7月
更新:2024年7月

  

池内ひろこさん パーソナルメイクトレーナー

いけうち ひろこ 1985年生まれ、大学卒業後KPMGあずさ監査法人入所。会社員の傍ら、カネボウメイクアップインスティテュートを卒業して、メイクの道へ転職。「人生は〝メイク〟で変えられる」を信念に、3,000人以上の女性を美しくしてきた。メイクレッスンや撮影、コラムニストとして活躍。2022年3月10月・2023年3月にベアミネラルとがん経験者のためのセミナーで講師を勤める

自分をもっと好きになりたいと会社に勤務する傍ら、メイクアップスクールに通った池内ひろこさん。そこで人を美しくする楽しさに魅了され、外資系大手化粧品メーカーに転職し、これまでの仕事とまったく違う新しい世界に踏み出した。その後、フリーのパーソナルメイクトレーナーとして独立し、波に乗ってきたとき右胸に乳がんが見つかった。

社会人になってから見つけた生きがい

「自分のことをもっと好きになりたい、と思って始めたのがメイクでした。私はコンンプレックスの塊で、とくに自分の顔が好きではありませんでした。もう少し自分のことを好きになりたいと思ったのです。可愛くなれたら自分のことを好きになれるんじゃないかと思ったんです。それで仕事が終わってから、夜メイクアップスクールに通い始めました」

そう語るのは現在、パーソナルメイクトレーナーとして活動している池内ひろこさん。

あずさ監査法人に就職して3年目、26歳のことだった。

池内さんが通った学校はもともとプロのメイクアップアーティストを育てるためのスクールだったが、彼女は自分自身のメイクを磨くためのコースを選んでいた。

「スクールでメイクを習うなか、その人がきれいになって喜ぶ姿をみて、私もすごくうれしくなったんです。自分の顔にメイクをするより、人をきれいにするほうが楽しいと思うようになっていきました」

監査法人に勤務しながら、最終的には1年半メイクアップスクールに通った。

ならばメイクを仕事にしようとは思わなかったのだろうか。

「学生時代に就職活動をしていても、とくにやりたいことがみつかっていませんでした。そこで、内定をもらった会社のなかで一番条件がいいところに入社しました。今思えば、そんな学生を雇ってもらえて本当にありがたいことですが、当時は生意気にも仕事に興味を持てず、目が死んでいたと思います。いま当時を振り返ると、本当に舐め腐った新社会人です。そうこうしながらメイクアップスクールに通い出して、自分が楽しいものを見つけたわけですが、だからといって自分の好きを仕事にすることが果たしていいことなのか、それがわからなかったのです」

というのも就職活動をしていたとき、趣味と仕事は分けたほうがいいとよく忠告を受けていたからだ。

「いくらメイクが好きになったからといって、それを仕事にするのはどうなんだろう、それにメイク業界に転職すると、いまの給料より大幅に収入が減ってしまう。それで自分は生きていけるのだろうかと思い悩み、なかなか転職に踏み切れませんでした」

その悩みを先輩に相談したところ、こんな答えが返ってきた。

「給料が下がる分は、自分が夢を売って得ている分なんだよ」

その言葉に、確かに生きていくには必要なお金だが、一度しかない人生でいま貰っている給料は夢を諦めるにはすくな過ぎるのではないか、と池内さんは思ったという。

先輩の言葉の後押しもあり、大手外資系化粧品メーカーに美容部員として転職をすることを決め、日本橋のデパートのなかにある化粧品ブランドの販売員として働き始めた。30歳を前にしての決断だった。

ところが、大きな決断をして美容部員として働き始めた彼女だが、そこを程なくして辞めることになる。

「人をきれいにしたくて化粧品メーカーに入社したつもりだったのですが、人をきれいにすることと化粧品を販売することは、まったく別だと気づいたからです」

そして今度こそは化粧品を売るのではなく、自分の技術を売りたいとメイクアップスクールの講師を教える人材として転職。そこで自信をつけた彼女は、退職してフリーのパーソナルメイクトレーナーとして活動を始めた。

「メイクの講師を指導する立場になり、自分にそれだけの技術があるんだったら独立してもいいのではないかと、調子に乗って独立してしまいました」

乳頭からの赤い液体に気づく

これからは自分の腕1本で生きていくと決意。仕事が波に乗ってきたとき、右胸にがんが見つかった。池内さん35歳のときである。

仕事が終わって帰宅。入浴しようと服を脱いだとき、ふと右胸を見ると乳頭からわずかだが、赤い液体が出ているのに気がついた。

池内さんは会社員時代から毎年健康診断を受けていたのだが、度々乳房に石灰化が見つかり、そのつど精密検査を受け、乳がんではないと診断されていた。

しかし、これはただごとではないと思い翌日、吉祥寺のブレストクリニックを受診する。そこでマンモグラフィ検査、エコー検査、針生検を行った。さらにMRI検査を受けるため別の病院を紹介されMRI検査も受けた。

それらの検査を総合した結果、乳がんで間違いないだろうとの診断を受けた。

「金属バットで頭を後ろから殴られたほどの衝撃でした」

クリニックの医師から結果を聞いたとき、人生で初めて死を意識したという。

「手術までは毎日ふさぎ込んだ状態が続いて、自分でもよくわからないような状態に囚われていました。人はいつかは必ず死ぬとはわかっていましたが、自分が乳がんと宣告されてから、現実の死が目の前に現れ、私が足を一歩踏み出せば暗闇に落ちていくような感覚に毎日囚われていました」

しかし、その間も池内さんはメイクに携わる仕事は続けていた。

「仕事をすることで死への恐怖を忘れられたからです」

右乳房全摘だったものの

右胸を全摘した手術直後。まだ麻酔が効いてボーッとしている

「クリニックでは部分切除ですんだらいいな、という話をしていました。でもいま振り返ってみると、クリニックの先生も全摘しかないと思っていらしたと思います。多分私に気を遣って、そこまで言われなかったんだと思います」

クリニックでは手術は行わないため、目黒の東京共済病院を紹介された。そこの担当医から「これは全摘しかありません。部分切除をして1/3なくなった状態のままがいいのか、全摘をして乳房再建するのがいいのか。選ぶとすれば、全摘して乳房再建するほうがいいでしょう」と言われた。

「私は全摘、しかも乳頭もなくなると言われたことがすごくショックで、なんとか乳頭だけでも残せませんか、と担当医に執拗に食い下がったのですが……」

無理と言われショックを受けた池内さんは、病院のこころのケアをする女性のカウンセラーにその悩みを打ち明けた彼女の悩みが伝わったのか、しばらくして担当医のところに戻ると、「乳輪だけだったら残すことが可能かもしれません」と。

「その担当医の言葉がすごく嬉しかったのをいまでもハッキリと覚えています」

手術翌日。襟元から包帯を止めるテーピングが見える。首から下げているのは術後に出る体液を入れるバッグ

2020年8月31日に右乳房全摘手術を行い、同時に組織拡張器(ティッシュエクスパンダー)を留置、秋に乳房再建術を受けた。

ステージはⅠかⅡと言われていたが、術後の病理検査でステージⅠと確定した。

術後は、仕事は1カ月ほど休んだものの、原稿を書くなどの仕事は入院中も続けていた。

「私は独立直後は仕事が全くなくて……、仕事のあることのありがたみが身に沁みていました。入院して現場から離れることで、仕事がなくなることが怖かったのです。それに加え、乳がんになって死を身近に感じたことで、人生の1秒1秒の大切さにも気づいて、当時は変に焦って仕事をしていました。そのせいで、周りの人にも急に仕事を急がすようになって、周りから見るとすごく変な状態になっていたと思います。仕事は進むけど、周りとの調和が取れていたかというとその期間はどうだったか……、いまは反省しています」

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