「積極的な夢」そして「人任せにしない知識欲」 子宮頸がんも糧にしたマンガ家・里中満智子さん

取材・文●「がんサポート」編集部
撮影●向井 渉
発行:2013年7月
更新:2018年10月

  
里中満智子さん

さとなか まちこ
1948年大阪生まれ。高校2年生のときに『ピアの肖像』で第1回講談社新人漫画賞を受賞。1974年『あした輝く』『姫がいく!』の両作で講談社出版文化賞受賞。ヒット作に『アリエスの乙女たち』『天上の虹』など。2010年には文化長官表彰。文部科学省、科学技術省など多数の委員を歴任。大阪芸大芸術学部教授

16歳の高校生時代からプロの漫画家として第一線を走り続ける里中満智子さん。31歳で見つかった子宮頸がんを持ち前の前向きさで乗り越えた。そして今、がんと向き合う人々に言いたいことは――。

10代で売れっ子マンガ家に登りつめた里中さんは、多いときで連載8本を抱え、睡眠時間1~2時間という毎日を過ごしていた。

「ちょっと無理かなと思えるくらいの仕事量がやりがいに通じるんです」

さまざまな主人公を設定しては、思い通りの行動をとらせた。いろいろな病気や運命を背負わせたりもした。それを克服する登場人物の一挙一動にファンはページをめくる指を止めることができなかった。

「眠れば治る」……本当は病気だった

繊細なタッチで独特な世界を描く

最初に体の異変を感じたのは20代後半に入ったころだった。ただし、予兆はあった。

「それまでも生理は頻繁に来て、出血量も多かったんです。生理痛もひどかったけど、痛いのは当たり前と思ってました」

中学生のころから生理になると立っているだけで腹痛がして、体育などはできるはずもなかった。

そのままおとなになった27歳。痛みは「のた打ち回るほどの激痛」になっていた。近所を手始めにいくつかの医院にかかったが、「睡眠時間が短いからホルモンバランスが崩れているのでしょう。眠れば治ります」と言われ続けた。自分でもそう思って、仕事を続けてきた。

「あるところでは『子宮外妊娠でしょう』とさえ言われたんです。そんな覚えはないし、この際徹底的に調べてもらおうと決意しました」

29歳のとき、山王病院(東京)に行くと、卵巣の片方が腫れていることが分かった。卵巣嚢腫だった。知らない病名だった。しかし、ショックを受けるよりも、ホッとした。

「原因がわかったんですから」

すぐに摘出手術が行われた。

「手術の翌月から生理が本当に楽になりました。生理って1週間で終わるのねって」

早く手を打てば楽になれる

このとき、里中さんはひとつの教訓を得た。

「『早く手を打てば、楽になれる』ということです。私の祖母は父系、母系とも30代で婦人科系の病気で亡くなっていました。父の母は子宮頸がんでした。おばあちゃんのころは、治療法も少なかったんだろうと思うと、自分は恵まれていると思いました」

2年ほどは「気分よく」仕事に打ち込んだ。

三十路の声をきいたころ、また体に不調を感じた。身体がだるく、微熱が続いた。ダイエットなどしたことがないのにやせてきた。寝汗もかくようになった。洋服を買いに行ったとき、今までとは一回り下のサイズを勧められ、体の変化を突き付けられた気がした。

「調子に乗って仕事をしすぎたかな、って思いました。病気なら早く見つけなきゃ、って」

「がんか結核だと思います」

 31歳、再び山王病院の婦人科を訪れた。里中さんは、創作者としての仕事の中で医療・病気に関する知識も集積していたため、医師に「がんか結核だと思います」と自ら言った。医師は子宮頸がんの細胞診をした。結果が出るという1週間後にまた病院に出かけた。

「何かお医者さんや看護師さんたちの雰囲気が違うんですよね。当時は患者への告知なんてしないのが当たり前でしたから」

医師は気をつかい、がんという言葉を極力避け、腫瘍などと表現した。しかし、治療法の説明で「抗がん薬」という言葉を出さざるを得なかった。里中さんは「お医者さんも大変だな」と少し引いた姿勢で聞いていた。ステージはⅠa期だった。

里中さんにとって、がんの告知よりもショックだったのは、「子どもが産めなくなること」だった。子宮の全摘出を勧められたのだ。

「小さなころから子どもが欲しかったんです」

20代前半で結婚したことはあるが、子どもに恵まれないまま離婚していた。

「その後は仕事一筋で、修道院のような生活をしていました。『しまった』と思いました」

積極的な夢を持とう

病院からの帰り道、書店に寄った。足が向いたのは、がんの闘病記のコーナーだった。告知が珍しかった時代だったが、本棚1段分ほどの体験記があった。この種の本はこれまで読んだことがなかった。

「あてにしていなかったんです。作者の個別の体験記ですから。でも、そのときの私は次々に手を伸ばしました。治って元気になっていくお話ばかりを選んでいた気がします」

入院は、1週間後に設定されていた。仕事を休む準備をしながら、里中さんは体験記からの励ましも得て、ここでもひとつの哲学を得た。それは「積極的な夢を持つこと」だった。

「治ったらこういうことをしよう、元気になったらあれもしたいと思うことは、生きる意欲に通じるんです。なるべくいい印象を描いてね」

里中さんの場合は、「子どもを持つこと」だった。当初は慰めのつもりか「子どもなんて苦労するだけですよ」などという知人もいたが、里中さんは子宮全摘出ではなく、子宮を温存する円錐切除(がん部位だけの切除)での対応を願い出た。周りも盛り立ててくれるようになっていった。担当医も「治ったらすぐに子づくりできるように相手を見つけておいてくださいよ」と笑顔で言ってくれた。

「自分の中でも想像が広がっていきます。子どもに向かって『お母さんはがんだったんだよ』などと話している将来の自分を描くことは、“気持ちのビタミン剤”になりました」

「あとはこまめに検査を」の意味

円錐切除手術は無事終わった。予定されていた抗がん薬と放射線による治療は取りやめ、1週間で退院の運びとなった。担当医は「手術はとてもうまくいきました。あとはまめに、念入りに検査を受け続けてください」と言った。里中さんは、その言葉の意味の大きさを感じた。

「子宮を残してもらって子どもを産んだとしても、それが私のいのちと引き換えでは子どもに対して無責任だ、と改めて思いました」

結果論ではあるが、その後の里中さんに子どもに恵まれる“ご縁”はなかった。

退院後は、健康により気を使うことにした。まず、仕事を減らすことにした。食生活にはもともと気を使っていたので、自信はあった。加えて、睡眠時間をたくさん取ることにした。

「父親が栄養士だったんです。そのせいもあり、バランスよく食べていました。睡眠時間については、午前1時から3時は寝ているようにすること、6時間眠ることを目標にしました」

仕事を減らすことについては、「がんなので……」というと大概の編集者は深追いせずに許してくれた。一方で、里中さんの中で仕事に対する意識が微妙に変わった。これまでは、漠然と平均寿命まで生きることを前提にして自己の創作活動の設計図を描いていたが、そう簡単なことではないことがわかった。

「自分の描きたいものを描いていこう。より具体的に考えるようになりました」

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