意見をたくさん聞く。そして、気持ちを聞いてもらう。 甲状腺がんを経験した女優・斉藤こず恵さん
1967年、東京都出身。劇団「若草」で子役に。1974年NHK連続ドラマ『鳩子の海』主演。1976年、『山口さんちのツトム君』で歌手デビュー。その後、芸能活動を休止し、アメリカの大学に進学。93年、教会の聖歌隊に参加するなどブルース歌手としても活動。現在、劇団「Stinky」を共同主宰。
昭和40年代、まだ「子役」という存在が珍しかったころ、6歳で国民的なスターになった斉藤こず惠さん。いったん芸能界を去るが、復帰後に劇団を率いてこれから、というときに甲状腺がんが見つかった。それは人生を見つめ直すきっかけにもなった。
NHK「鳩子の海」で全国に知られるように
やんちゃな女の子だった。3歳になったころ、両親はしつけの目的で劇団「若草」に入れた。男の子役でデビューした。小学校に上がる年、NHK朝の連続テレビ小説『鳩子の海』の主役に抜擢された。平均視聴率は47%に達し、一躍全国に知られるようになった。
その後もレコードデビューなど活躍を続け子役の代名詞ともなったが、小さな体には負担が大きすぎたのか、小学6年生で十二指腸潰瘍に見舞われた。
「友だちと同じ生活をしたい」と次第に仕事を減らし、高校卒業後は芸能界から身を引き、進学先に米国ニューヨークの大学を選んだ。
「全く知らないところに行きたかったのです」
しかし、ブロードウェイを志す友だちに出会い、子役時代のことを話すと、「なぜ自分の力を活かさないのか。うらやましくてしょうがないのに」と言われた。
彼女らと交流するにつれ、自分はやはりこの世界に生きたいと感じた。音楽と芝居の勉強にどっぷりつかった。
「自分の才能に対する感謝の仕方がある。自覚ができました」
世紀が21世紀に替わるころ、芸能活動を再開した。ブルース歌手として、舞台女優として、活動の場を広げようと日本と米国を行ったり来たりの生活だった。そんなころ、思いがけないことが待っていた。
音域が下がった 声が出ない……
歌手として、自分の声を何より大切にしていた。頻繁に医療機関で声帯のチェックを受けていたが、2004年、ニューヨークの病院で、医師が首をかしげた。
「ごく小さいが、ポリープ(声帯の粘膜が一部腫脹または突出したもの)がある」
ショックだった。甲状腺がんの疑いだった。甲状腺はのどにある小さな臓器で、全身の新陳代謝や成長促進に関係するホルモンを分泌する器官だ。がんの症状はあまり出ないが、声のかすれなどとして現れることもある。
「そう言われてみると、思い当たることもあったんです。声の音域が1オクターブ低くなっていたし、ファルセット(裏声の一種)を使えなくなっていました。お酒を飲んだからかな、なんて思っていました。知識がなかったからです」
斉藤さんは、そのころの生活をさらに思い出してみた。1年半で57kgの減量をしたばかりだった。海藻やきのこを利用したダイエットだったが、
「ヘルシーということにこだわったつもりでしたが、それにとらわれ過ぎて、過剰摂取がよくなかったのかもしれません」
父親が胃がんになり、胃の全摘出手術を受けたことも、あまり気にしていなかった。ただ、異母兄弟の兄が甲状腺がんにかかったことを思い出した。
死にたくない絶対ありえない
日本に戻り、東京の大病院で診てもらったところ、「ポリープの自然治癒のあとがあります。その再発では。今の段階ではがんかどうかわかりませんが……」と言われた。
しかし、さらなる検査の結果、希望的観測はなくなった。ポリープではなく、「がん」であることを指摘された。甲状腺がんのなかで最も多い乳頭がんという種類だった。
「死になくない。絶対ありえない――パニックになりました」
気を取り直した斉藤さんは、未知の世界での進路を見極めるべく、都内の病院を訪ねて回った。
「それぞれのお医者さんに、みな違う治療方針を説明されました。甲状腺の全摘やリンパ節郭清などさまざまでした。
『10年もちませんよ』とさえ言った医師もいました。日本ではセカンドオピニオンという言葉が知られていると思いますが、私は4番目のオピニオンまで求めました。米国ではそれくらいの数の医療機関を回ることは珍しくないことを知っていたからです」
医療機関を回るうち、ある大学病院で、手術をしなくても済む治療法を提示され、それを選択した。
「女優であり、歌も歌う私にとって声は命です。のどにメスを入れて、もし声を思うように出せなくなったら、それは死刑宣告みたいなものです。切らない治療法にかけました」
レーザーでがんの部位だけを切除する方法と、抗がん薬とホルモン薬による治療を受けることになった。抗がん薬の副作用も詳しく聞いた。
「今から思うと、尋ねすぎたかなと思うくらい、質問しました。これは何のための治療か、抗がん薬にはどのような効果と副作用があるのか――と事細かく説明してもらいました」
納得の上で、治療に入った。
抗がん薬 副作用との戦い
2004年暮れ、レーザー治療の日を迎えた。2時間で成功裡に終わった。1週間の入院を経て退院した。
「声が出せることに本当に感謝しました」
しかし、治療の苦しみはそこからだった。
「胃がんだった父親が、抗がん薬に苦しんでいるのは知っていました。でも、私は真剣に見ていなかったのだと思います。抗がん薬治療は苦しいものでした。自分の身に降りかかり、つらさがよくわかりました」
医師に訴えて、ゆっくり点滴してもらったりもしたが、吐き気は強く、朝起きられないほどの低体温症に悩まされた。
「お風呂に入っても温度を感じないんです」
気がつくと、湯温設定を42℃まで上げていた。それでも熱く感じない。
身体のむくみも出た。基礎代謝力が落ち、1日の消費カロリーは一般女性の3分の1ほどの400キロカロリーまで低下した。生理も止まった。仕事に行くにも、4時間前に起床しなければ体が動かなかった。
精神的・感情的な面でも、喪失感、鬱、気分のムラがコントロールできないほどだった。症状に加え、家庭環境も微妙な時期で、父親が認知症で母親が介護に頑張っていただけに、
「母親にも言わずにひとりで抱えていました」
つらい日々が続いた。
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