自分がときめくもの細胞が生き生きすることを見つけよう 胃がんで手術、再発を経験しながら芝居に打ち込む俳優・佐藤B作さん
1949年、福島県生まれ。早大商学部を中退後、演劇を目指して「劇団東京ヴォードヴィルショー」を創設、主宰者に。舞台やテレビを中心に活躍。東日本大震災後は、地元のために募金や支援活動も展開する。妻は女優のあめくみちこ
舞台、テレビなどで独特の魅力を発散する佐藤B作さんは、2007年に何の自覚症状もないまま、胃がんの宣告を受けた。8時間の手術を受けた病床でも仕事への思いを途切れさせず、その後も第一線で活躍を続ける。舞台にかける気持ち、病気に打ち克つ心の持ち方を聞いた。
2007年10月、東京・新橋演舞場の舞台の袖が、佐藤B作さんにとって一つのターニングポイントとなった。『寝坊な豆腐屋』に出演中、共演した中村勘三郎さんが話しかけてきた。
「最近、お酒が次の日にも残るんじゃない?」
心当たりはあった。「そうなんですよ」
「定期健診は受けてる? だめだよ、行かなきゃ」――
両親とも脳溢血、まさかがんとは……
検査を受けた。その結果を、医師は佐藤さんを個室に呼んで話した。
「胃がんです。1カ所に固まっているならばそこを取ればいいから簡単ですが、佐藤さんの場合は砂を散りばめたように、どこまで広がっているかお腹を開けてみないとわからない、クセの悪いがんです」と、淡々と告げた。
佐藤さんにとっては、意外な通告だった。
「『へえ、がんですか』と。両親とも脳溢血(脳出血)で亡くなりました。親父は倒れて10年近く寝込んでいたし、看病していたおふくろも倒れて3年も4年も入院して亡くなりました。自分も死ぬのは脳溢血だろうなと。がんの家系じゃないと思っていた」
告げられたのは、主宰する「劇団東京ヴォードヴィルショー」の関西・中国地方での公演の最中だった。すぐに入院と手術を受けてほしいと医師に言われたが、公演はまだ1カ月も残っていた。劇団主宰者として、それを中止するわけにはいかなかった。
「死んでもいい」続けた地方公演
地方公演は、さまざまな人々の労苦で成り立っている。有志による組織が身銭を切って何年もかけて企画し、役者たちもそれに備えて準備を積んできている。それを自分の事情で止めるわけにはいかないなと思った。
「医師に言い返しました。『無理です。1カ月後でないと』と。医師は『死んでもいいのか』と言いました。『それで死んだらしょうがないですね』って返しました」
舞台人として“格好いい”セリフだが、今振り返ると、反省がつきまとう。
「今ならすぐに病院に行っているんでしょうが、そのときはがんとの初めての出合いだったから、甘く見ていましたね。ご飯はおいしいし、お酒もおいしい。体重も毎日芝居をやっても減ったりはしない。『胃がんですよ』と言われても、信じられなかった。やせて血を吐いたり、お腹が痛かったりすれば芝居どころではないのでしょうが、自覚症状が全くない。がんに罹ったという意識が本当に薄かった」
振り返って気づいた胃腸の弱さ
佐藤さんは、福島県飯坂町(現・福島市)に戦後間もなく生まれた。日本の成長とともに育った。
「福島から東京に出たかった。東京の大学に行きたかった。中学から一生懸命勉強しました。睡眠不足になるくらい勉強して福島高校という地元では一番優秀な高校に入りました」
しかし、無理が積もったのか。高校での中間テストの最中に胃痙攣を起こした。
「胃が雑巾を絞るような激痛に襲われ、脂汗が『ドワー』と出て、試験どころではなくなりました。思えば、子どものころから胃腸系は弱かったかもしれません」
新しい世界演劇への目覚め
大学は、世界で活躍する商社マンになりたくて早稲田大学の商学部を選んだ。サークルは外交学会に入った。津田塾大学に英語を習いに行った。
「絵に描いたような真面目な学生だったんですが、夏になる前にそれが全部イヤになっちゃいました。真面目にやってきたのが一気に嫌になった。根が不良だったんでしょうか(笑)」
新宿・歌舞伎町のジャズ喫茶に朝まで入り浸った。仲間たちと取り留めのない話をした。あるとき、下宿で『若者たち』というテレビドラマを見た。両親がいない5人兄弟が力を合わせて戦後を生きていく話だった。
「自分もプラプラ遊んでいてはいけない。燃えるような、熱くなることをしなければいけないと思いました。そのエネルギーが演劇に向かったんです。芸術・芸能系が好きだったのかもしれない。それを断ち切って受験勉強をしてきた自分が嫌になったのかもしれませんね」
早大の劇団に入った。授業に出られなくなる。成績がどんどん悪くなっていった。
「福島高校から一緒に入った同じ町出身の中野君の成績表を見せてもらったら『優』の中でも最上級ばかりだった。それ見たときにオレはダメだなと思った。結果的に中野君は私の行きたかった企業に入った。オレはプロの俳優になるしかない、と思いました」
時代を体感し劇団主宰へ
当時、1970年前後は “日米安保” をめぐる学生運動の真っ只中だった。
「私のいた劇団は早大の中でも唯一、デモに行かない劇団だったので、吊るし上げられました。『デモに参加しないなら稽古場を使うな』と言われて、しょうがなく劇団全員で行きました。新橋で歌を歌っていたら、機動隊に囲まれていました。体の大きな機動隊員5人に囲まれ『親の仕送りで勉強しているくせに何がデモだ、この野郎』と、足腰が立たないくらい殴られた。ボロボロになって裸足で電車を乗り継いで新井薬師の下宿にたどり着いたときには涙が出ました」
思想ではなく、雰囲気で参加したデモだったが、「闘っている」というときめきを感じた。ただ、冷めた目も持っていた。
「自分たちは『世の中のために闘っている』と思い込んでいるんですが、機動隊の攻撃を受けて逃げていくと、商店街のおばちゃんが『あそこに逃げたよ』と機動隊に言うから捕まっちゃう。街の人々のためにやっているのに、敵になっていると感じたときはショックでしたね(笑)」
時代とともに生きた経験は、舞台にも活きた。
「社会や国の在り方といった観点が、演劇にもなければならないということで、勉強になった」
大学は3年で退学し、プロ養成所を経て、それまでの新劇の形を破ろうとする「自由劇場」にあこがれて研究生になった。そののち、「自分たちでやりたい」と思い立ち、東京ヴォードヴィルショーを結成した。24歳だった。
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