みんなとボールを蹴りに戻ってくる 仲間に届け! 「番長」の決意 肺がんと闘うフットサル元日本代表・久光重貴さん(32)

取材・文●西条 泰
撮影●向井 渉
発行:2014年2月
更新:2018年3月

  

ひさみつ しげたか
1981年7月8日、神奈川県横浜市生まれ。小学生で横浜SCつばさ、中学生でヴェルディ川崎ジュニアユースを経て、東京の帝京高へ。卒業後、21歳でフットサルに転身。カスカヴェウ、ペスカドーラ町田を経て2008年から湘南ベルマーレ。09年日本代表。ポジションは守備と舵取り役を担うFIXO。1メートル72、71キロ

フットサルをしたいのか。生きたいのか――。サッカーのエリート街道を歩んでいた久光重貴さんは選択を迫られた。病名は肺がん。ステージ(病期)はⅢb。久光さんは自分の思いを自分の言葉でチームメイトに告げた。

2013年7月、サッカーファン、フットサルファンを驚かせる発表が湘南ベルマーレからあった。

「フットサル元日本代表の久光重貴選手が右上葉肺腺がんと診断されました」

サポーターから「番長」のニックネームをもらっている久光さんは、ピッチ外での闘いを始めなければならなくなった。

「もちろん怖さもありましたが、すぐに良くなるだろうという楽観的な自分もいました。しかし、何を考えてもこの状況だけは確か。今はとにかく治すことだけを考えています」

懸命にがんと向き合う姿勢は、彼のこれまでのサッカー人生とも重なって見える。

ヴェルディのジュニアユースに合格

眼下に広がる住宅街に明かりがともるころ、川崎市の高台に電車とバスを乗り継いで通ってくる少年がいた。中学生の久光さん。自動ドアを入ると、そこには三浦知良、ラモス瑠偉らがくつろいでいる。20年前、Jリーグ開幕直後のヴェルディ川崎のクラブハウスだ。

「スーパースターが練習しているすぐ隣で僕らもサッカーができる。素晴らしい環境でした」

父・慶重さんが監督をする横浜SCつばさで、3つ違いの弟・邦明さんとともにサッカーを始めた。左利きでボールさばきのうまい弟といつも比較された兄は、不器用を自認しながらも頭をかきながら「オレだって」という闘志を燃やしていた。

小学6年生の時、サッカー仲間が「ヴェルディでジュニアユースのセレクションがあるんだって」とサッカー誌を持ってきた。

会場に行って驚いた。500人を超えるライバルたちがいた。久光少年はリフティングしながら30メートル走る課題に苦戦したが、ミニゲームでの動きなどが評価され、あれよあれよという間に合格した。あこがれの緑のユニフォームをもらったのは9人だけだった。

「横浜から片道1時間半かけて通い続けました。大変だったけど、とても大きな財産になりました」

友だちの輪がほかの地域にも広がり、「日本一を目指そう」という高い目標に向かってともに頑張る充実感を体で学んだ。

「僕の場合は雑草魂ですね。落ちても這い上がれ、努力だ。やらされる前に自分からやらなければ進歩はない――」

サッカーで社会生活の厳しさも学ぶ

FWを中心にどのポジションにも対応できる視野の広い選手に成長した。

高校は名門の帝京高校(東京)を選んだ。練習の激しさはもちろんだが、大所帯のサッカー部は一つの世界を作っていた。その中で、都の選抜候補にもなった。

「サッカーだけでなく社会生活の厳しさも学びました」

と振り返る。高校3年生の最後の大会では都大会まで背番号をもらっていたが、いよいよ全国選手権、というときにメンバーから外されるという悔しさを味わった。

「今思えば、それもいい経験になりました。今の自分に繋がっています」

技術だけではない、困難に負けない精神力も磨き、一回り大きな青年になっていた。

オレは何をしたいんだ?巡り合ったフットサル

守備の砦と攻撃の舵取り役でチームを支える久光さん

高校卒業後は、進路に悩んだ。とりあえず短期の仕事をしながら考えることにした。最初にした仕事は、トイレ掃除のアルバイトだった。

「人が嫌がる仕事をやってみよう。それができれば何でもできるはず」

次に運送業で働いた。同世代の若者が手にするよりもかなり大きな額の給料を手にしたが、「おカネじゃないな」と感じた。「オレは一体何がしたいんだろう――」

久光さんが選んだのは、自分を育ててくれたスポーツに関わる仕事だった。大手スポーツクラブのインストラクターになった。そんな21歳のころ、“草サッカー”を通じて親交を深めた人物にフットサルの強豪チームを紹介された。まだメジャーとは言えなかったフットサルだが、挑戦することに躊躇はなかった。

フットサルは1チーム5人で、屋内のピッチで行われる。ボールはサッカーよりも小さく弾まない。

「攻守の切り替えの速さが特徴です。サッカーで言えば常にペナルティエリアでプレーしているイメージ。バスケットボールやアイスホッケーを見ながら戦術を考えるというヨーロッパの指導者もいます」

スポーツクラブの仕事と夜の練習時間が重なったため、会社側と話をし、勤務を日中に行われる人間ドックの体力測定や運動指導にシフトしてもらった。周囲に助けられている有難さを感じた。

全員で攻めて全員で守る展開は、すべてのポジションをこなせる久光さんに合っていた。練習生から始めたが、台頭するのに時間はかからなかった。

08年からは神奈川県平塚市を本拠地とする湘南べルマーレに所属。09年に日本代表に選出された。「番長」のニックネームは、ゴール前で相手の攻撃を防ぐ強靭な身体能力と存在感から付けられた。

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