行司は声が命。命が助かっても、手術で声を失ったらおしまいなんです 2008年に食道がんの手術を経験した立行司第37代木村庄之助さん(65歳)

取材・文●吉田健城
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2015年7月
更新:2018年3月

  

はたけやま さぶろう
1950年青森県出身。幼いころから相撲好きで、中学卒業と同時に高島部屋に入門した。行司としての初土俵は65年7月。12年11月場所より立行司・式守伊之助(第39代)を襲名、13年11月場所には最高位の木村庄之助(第37代)を襲名した。今年3月の春場所をもって定年退職、50年にわたる土俵生活に別れを告げた

今年(2015年)3月、大相撲春場所・千秋楽の結びの一番は白鵬と日馬富士の横綱同士の対戦となった。両者を裁くのはこの日限りで50年の行司人生に終止符を打つ第37代木村庄之助である。「番数も、取り進みましたるところ。かたや、白鵬、白鵬。こなた、日馬富士、日馬富士。この相撲一番にて、千秋楽にござりまする」大相撲ファンに愛されたこの威厳に満ちた声は7年前に大きな危機にさらされる。食道がんが見つかり、まともに声を出せなくなるリスクが生じたのである。

「暴飲暴食とタバコを続けたバチが当たった」

今年3月の春場所を最後に50年にわたる行司人生にピリオドを打った畠山さん。やはり心残りは「日本人の横綱を裁けなかったこと」と話す

歌舞伎役者や噺家は格が上がるにつれて名前がグレードアップするが、それが最も顕著なのが大相撲の行司の世界だ。第37代木村庄之助の畠山三郎さんも、1965年に青森県上北郡六戸町の中学を出て高島部屋所属の豆行司になったあと、12年間は木村三治郎を名乗っていたが、77年1月場所で幕下格になった際、5代目木村玉治郎を襲名。さらに2003年に旧立浪一門(現・伊勢ケ濱一門)の重要な名跡である木村庄三郎(第10代)に名乗りを改めた。

食道がんが見つかったのは庄三郎になって6年目の2008年8月のことで、相撲協会の健康診断を受けた際、レントゲン(X線)検査で胸の中央に曇った影が見つかり、両国国技館の近くにある総合病院で詳しい検査を受けたところ、食道がんであることが判明したのである。

「先輩の行司に現役中、がんになって亡くなった方がいたこともあって、がんは助からない病気だと思っていました。ですから、がんだと言われたときは、自分はもう長くないと思い、覚悟を決めました」

しかし、担当の医師の説明を聞いているうちに少しほっとした。がんは内視鏡で切除が可能な大きさではないが、まだ転移はしていないので、手術を受けてがんを全摘できれば治ることがわかったからだ。

医師からの説明の中で、食道にがんができる3つの要因は、過度の飲酒、刺激性食物の過剰摂取、喫煙で、この3つが揃っている人は発症率が高くなると聞かされたときは、自分にすべて当てはまるので、「タバコを1日ひと箱吸い続けながら、さんざん暴飲暴食をしてきたバチが当たった」と思った。

ただ、暴飲暴食が多くなるのは行司という職業の特殊性を考えれば、ある意味仕方のないことだ。行司は1年の4割くらいを地方で過ごす。大阪、名古屋、福岡で本場所があるときは1カ月以上滞在することになるが、気の合う仲間と酒を酌み交わし、飲み過ぎることも多くなる。

それに加え、行司は所属する部屋の激励会や打ち上げ会の仕切り、案内状の作成と発送、礼状書きといった事務長的な役割も担っている。そのため、各地の後援会関係者たちとも緊密な関係になり、酒食をともにすることも多く、飲み過ぎ食べ過ぎになってしまうことが多いのも頷ける話だ。

がん告知を受けた病院とは違う大学病院で手術

治療は当時所属していた大島部屋(親方は元・大関旭國)のおかみさん(親方夫人)から紹介された大学病院で受けることになった。がんの告知を受けた総合病院で受けなかったのは、担当医との会話の中で意識的なズレを感じたからだ。

「最初に行った病院の担当医は、ひと通り食道がんや手術に関する説明をしたあと、『手術はウチの病院でもできますが、他で受けられても結構です』と言うんですよ。治して欲しいからここに来ているのに、他の病院で手術を受けてもいいというのは、どういうことかと思いました。頭にきたので、病院を変えることにしたのです。部屋(大島部屋)のおかみさんに、どこかいい病院がないかを相談して、紹介してもらいました」

その後、大学病院を受診した畠山さんは、改めて各種の検査を受けたあと9月末に入院。それからしばらく検査が続いたあと 10月27日に手術を受けることになった。

かすれ声になれば 行司人生は終わり

手術を受けるにあたり、何よりも気がかりだったのは声のことだった。

食道がんの手術は長時間かかる大手術になるため、様々な合併症が起きる。とくに高い頻度で起きるのがかすれ声だ。

手術中に声帯を動かす神経の1つである反回神経が傷つき、麻痺することによって起きてしまう。発生頻度は一般的に2割前後と言われており、食道がんの合併症の中でも頻度が高いものの1つだ。

行司にとって声は命とも言えるもの。もし声が元のように戻らないとすれば、仕事を続けられなくなってしまう──。

当時畠山さんは、10代目木村庄三郎として三役格行司に出世し、行司の横綱格である立行司(名乗りは木村庄之助、式守伊之助)の座に、あと少しで手が届くところまで来ていた。

行司は大半が中学を出て入門後、20年以上、長くてつらい下積み時代が続き、40歳近くになって初めて十両格に昇進し1人前の扱いを受ける。

行司の中でも畠山さんは若いころ、とくに苦労が多かった。所属することになった高島部屋が親方の方針で、午前2時に起床して朝稽古を開始する厳しい部屋だったからだ。若い行司は大部屋で幕下以下の力士たちと寝食を共にするので、若い力士がまわしをつけて稽古場に下りると、任された仕事を始めないといけない。風呂焚き、トイレ掃除、洗濯、チャンコの手伝いなど、やるべきことはたくさんあった。さらに本場所が始まると、序の口、序二段格の行司として取り組みを裁くだけでなく、先輩行司の付き人も務めないといけない。

それでも、立行司になる夢があったので辛抱できたのだ。だからこそ、チャンスを目の前にして行司人生が終わってしまうことは、何としてでも避けたかった。

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