自ら動き、納得できる治療法を選んできた、長野五輪・アイスダンス日本代表の河合彩さん(41歳) 乳がんを経験して見つけたものは、勝ち負けとは違う価値観だった
1975年、東京都出身。青山学院大学卒業。大学在学中の98年、フィギュアスケート・アイスダンスの日本代表として長野オリンピックに出場。直後引退し、翌年日本テレビ入社、アナウンサーとしてスポーツ番組、ニュース番組などを担当。02年退社、カナダトロントへの留学などを経て、10年ブランディング会社を立ち上げ独立。現在、フィギュアスケート解説者、フリーアナウンサー、アナウンススクール講師、フィギュアスケートインストラクターとして活躍中。14年39歳のとき「乳がん」と診断。翌年、結婚
幼いころから勝負の世界に身を置き、勝ちにこだわってきたアスリート。だが今、彼女の佇(たたず)まいに、気負いや押しの強さは微塵もない。「毎日、今日を生きていることが愛おしい」と語る柔らかい笑顔を見ていると思う。幸せとは、決して他人の目から見た〝わかりやすい成功〟ではないのだ、と。
その瞬間、頭の中が真っ白に
2014年6月、入浴中、体を洗っていた手が右乳房の上で止まった。
「しこり……?!」
折しも8カ月前に人間ドックを受け、異常なしの結果に安堵したところだった。
「そんなはずない」と思い直し、「大丈夫なことを確かめるため」に、すぐさま病院へ向かった。
初めはどこの診療科に行けばよいかわからず、かかりつけの婦人科クリニックへ。婦人科の医師にしこりの存在を指摘され、すぐに紹介状を書いてもらい、総合病院の乳腺外科に向かった。
最初に受けた検査はマンモグラフィ(乳房X線撮影)。ただ、この検査では、乳腺が発達している乳房の場合、全体が真っ白に映り、がん細胞を見つけ出せないことがある。河合さんがまさにそうだった。結局、マンモグラフィではわからず、エコー(超音波検査)で異物を確認、穿刺吸引細胞診で「乳がん」と診断された。
「告知された瞬間、頭の中が真っ白になりました。すぐには理解できず、『乳がんの疑い』と思ってしまった。気付いたら、待合室で母に『がんの疑いがあるみたい』とメールしていました。もう告知されていたのに」
その後も、針生検に始まり、MRI、骨シンチグラフィと検査は続いた。乳がんのタイプを明らかにし、それに適した治療法を探るためだ。
「これらの検査から結果がわかるまでが2週間。この間に、乳がんに関する本を読んだり、ネットで調べたりして、もし乳房全摘になっても、今は再建という方法があるからジタバタするまい、と自分に言い聞かせました」
がん告知によるショックとパニック。その瞬間は頭が真っ白になった河合さんだが、自分が乳がんであることを理解してからの彼女の行動は素早かった。気落ちする間もなく、乳がんについて知ろうと前へ進み出したのだ。
「実は、乳がんになった前年、私の親友も、乳がんになっていたのです。その彼女が、ショックで混乱している私に『がんは免疫力が弱ったときにできるのだから、気持ちがふさいで落ち込んでいたら、がん細胞を喜ばせるだけ。たくさん笑って免疫力を上げよう』と。そうか、それなら、明るく過ごして、がん細胞を退治しよう!と思いました。彼女の存在が本当に大きかったです」
納得して治療に臨むということ
針生検による組織検査の結果は「ホルモン(HR)受容体陽性、HER2陰性」。日本人乳がん患者の70%を占めるこのタイプは、エストロゲンなど女性ホルモンを餌に大きくなるのが特徴だ。治療法は、手術で腫瘍をとり除き、術後はホルモン療法を主に、リンパ節転移の有無などにより抗がん薬治療や放射線療法の追加が検討される。第1段階の手術で、河合さんに提示された治療方針は、右乳房の全摘出だった。
「全摘の可能性もあると覚悟はしていました。ただ、乳頭乳輪も全てとらなければいけないという事実に、すごく動揺してしまって。乳房温存手術をして、その後、放射線療法や薬物療法を受けるという選択肢もあるとは言われたのですが、その場合やはり再発リスクは高くなるという説明がありました。『なので、全摘でいいですよね?』と迫る医師に、私、すぐに返事ができなくて」
医師の言うことが正しいとわかってはいた。けれど、どうしても抵抗感を拭えなかった。迷った末、セカンドオピニオンを求めて他院の扉を叩いた。
「結局、サードオピニオンまで受けて、3人の医師が基本的には同じ見解でした。不思議なもので、同じことを言われても、最初は『そんなはずない』、2回目は『やっぱり……』、3回目になると、自分の中に受け入れる態勢ができているんですね。かつ、最初は、私自身の知識不足から、先生の言っている内容の半分も理解できませんでした。そこから色々調べて勉強し、2人目の先生の話は前よりわかるようになって、3人目の先生のときには、私なりに納得できたように思います。
ただ、医師との相性も確かにあります。同じことを言われるにも、ちょっとした言葉の端々に違和感を覚えることもあるし、その逆もあります。3人目の先生は、乳頭乳輪を含めた全摘という手術方針に関しては最初の先生と同じでしたが、術後にどうするかという話を細かくして下さいました。今、同時再建の技術はとても進んでいて、膨らみに関してはほぼ問題ないレベルです、と。1つ問題があるとすれば、年齢を重ねたときに再建したほうだけ張りがあるままなので、左右で高さが変わるそうです(笑)。ただし、乳頭乳輪の再建はまだそれほど高い技術ではないものの、決してできないわけではないこと、今はよくできたシリコンのシールで補うこともできる、ということまで細かく説明してくれました。
その過程で、少しずつ安心し、納得していけたように思います。結局、手術は3人目の先生にお願いして、以降ずっとお世話になっています」
右乳房全摘術と同時再建。術前検査では4.5cmと言われた腫瘍サイズは、実際は4cm弱。とはいえ、小さながんだとは言えず、リンパ節転移は大いにあり得た。リンパ節転移の有無は、手術時にセンチネルリンパ節生検をしてみないとわからない。河合さんを診察した医師全員が「手術してみないとわからない」と口を揃えていた。結果は、リンパ節転移なし。光が射した。
遺伝子検査で、再発リスクの程度を知る
術後経過も良好、2週間で退院した。退院後初めての診察のとき、医師に遺伝子検査「オンコタイプDX」を勧められた。これはアメリカで開発された検査で、乳がんの再発に関する21の遺伝子を解析し、その発現の仕方からがん細胞の性質を解明。再発の可能性と術後の抗がん薬治療の必要性を明確な数値で評価する検査だ。検査対象は「ホルモン受容体陽性、HER2陰性」の人で、ホルモン療法に抗がん薬投与を加えるべきかどうか悩む場合。まさに河合さんのケースだ。
「先生からは『僕の経験上、河合さんのがんは再発リスクがそんなに高くないタイプだと思うけれど、それは僕の経験からくる勘であって、エビデンス(科学的根拠)に基づくわけではない。予想通り再発リスクが低ければ、術後はホルモン療法のみでいいけれど、4cm弱という腫瘍の大きさを考えれば、検査なしで低リスクとは言い切れない。正しい判断をするために、遺伝子検査を受けませんか?』と」
〝念のために抗がん薬治療も〟というのが長年行われてきた治療法。しかし、抗がん薬投与は強い副作用を伴い、QOL(生活の質)を著しく低下させる。その苦しみが、実は必要ないものだとしたら……。反対に、低リスクに見えて実は高リスクだったならば、何を置いても抗がん薬治療が必要だ。その判断を間違えないための検査、それがオンコタイプDX検査と言っていいだろう。
「もし、しなくてもいい治療をせずにすむなら、遺伝子検査を受けたいと思いました。逆に、もし再発リスクが高いとわかったら、迷わず抗がん薬治療に臨もう、と覚悟も決まった。ただ、この検査は保険適用外。アメリカに検体を持ち運んで検査するために40万円強の費用がかかります。私は幸い、がん保険に加入していたので受けられましたが、検査代を知って諦める方も多いでしょう。多くの乳がん患者さんが、高価ゆえにこの検査を受けられず、抗がん薬治療を受動的に選んでいるのかと思うと胸が傷みます。1日も早く保険適用になってほしいと思います」
河合さんの遺伝子検査の結果は「再発リスクが非常に低いタイプ」。医師が思っていた以上に、再発リスクを示す数値は低かった。ゆえに、抗がん薬治療は必要なし。放射線治療も必要いらず、術後はホルモン療法のみと決定した。
ホルモン療法とは、体内の女性ホルモンを急減させ、女性ホルモンを餌に増殖する乳がんを兵糧攻めにする治療法。河合さんが現在服用しているのは*タモキシフェンと呼ばれる薬剤だ。
「副作用はあります。生理不順、体のだるさ、突然激しく汗をかいたりのぼせたり。いわゆる更年期障害のような症状ですね。軽い乗り物酔いのような状態が2~3日続くこともあります。個人差はあると思いますが、私の場合、我慢しながら日常生活を送れる程度です」
ホルモン療法を始めて1年半。河合さんは今、1つの選択をするかどうか迷っている。
「もし子どもを望むならば、41歳という私の年齢はギリギリ。実は先生から、妊娠を希望するのなら、ここでいったんホルモン療法を休止してトライしてみてもいいと言われたところです。ただし、2年間限定。子どもができてもできなくても、2年後には治療を再開するのが条件です。それさえ守れば、先生の経験上、問題ないそうです」
現在、妊娠を希望する若い乳がん患者に対して、ホルモン療法を一時的に中断して、その後の再発に影響がないかを調べる臨床試験への参加登録を受け付けている。河合さんはその試験に参加するかどうかを、ご主人に相談し、話し合っている最中だという。
*タモキシフェン=商品名ノルバデックスなど
出会った直後にがんの告知を受ける
河合さんが結婚したのは、乳がん手術から間もない2015年3月。前述の親友の紹介でご主人と初めて出会った日は、乳がん告知の5日前だった。出会った直後に告知を受け、「ああ、縁がなかった」と思ったという。そんな気持ちで送った「乳がんになりました」のメールに、しばらく間を置いてご主人から返事が返ってきた。「親友同士とはいえ、2人とも同じ乳がんだなんて仲良過ぎでしょ」と。
「がんと言うと、死に直結した反応ばかりされる中、驚くほどのズレた回答に、妙にホッとしました。後で思うと、すぐ返事が来たわけじゃない。微妙な間がありました。きっと色々考えて言葉を選んでくれたのでしょう」
奇しくも、出会いと乳がん告知がほぼ同じとき。始まりの時点から、2人の間には「乳がん」があった。毎回、「これで終わりかもしれない」と思いながら、治療経過や結果をその都度すべて彼に報告してきた河合さん。
「乳頭乳輪も含めて右乳房を全摘する、という話が出てきたときは、さすがにもう無理だろうと思いました」
だが、彼の反応は違った。「セカンドオピニオンを受けたい」と言う河合さんの背中を押しつつも、「それでも全摘しなくちゃいけないのなら、リスクを残すよりとったほうがいい」と続けた。
一方、河合さんは何気ない会話の中で、彼が〝子ども好き〟なことを知っていた。ホルモン療法中は子どもを作ることはできない。さらに、遺伝子検査の結果が出るまでは抗がん薬治療の可能性もあった。抗がん薬治療をしたら、妊娠は難しいだろう。子どもを望む人に、子を持つ人生を諦めさせてしまうとしたら……そう思うとやりきれなかった。
前向きに過ごしながらも、時々ふと訪れる不安と恐怖。彼の存在と言葉が、どれほど河合さんを支えたか。しかし同時に、彼の今後を考えると、自分と一緒にいて彼はいいのだろうか……と思い悩む日々でもあった。
「子どもがほしいなら、別の選択をすることもできるよ、と彼に言ったこともあります。そのとき彼は、否定するでもなく、肯定するでもなく。そんな状態が続いていたので、正直、プロポーズされるまでは、私は心のどこかで、いつか終わりが来ると思っていました。実際、彼もすごく悩んだと思います。最終的に『2人でもいいじゃない』と言われて、今があります」
結婚して1年4カ月の現在、2人は医師の助言のもと、子どもを授かるためのトライアル期間を持つかどうか考えている。ホルモン療法を1年半続けてきた今だからこそできるトライアル。「再発リスクが非常に低い」という遺伝子検査結果も強い味方だ。
元気に生き続けることの意味
1998年、大学4年のときアイスダンスで長野オリンピックに出場、直後に引退し、翌年、日本テレビのアナウンサーになった。
「スケートはオリンピックで終わり、と決めていました。当時のスケートはなかなかスポンサーがつかず、これ以上親に経済的負担はかけられないと思って。オリンピックと同時進行でアナウンサー試験を受けていました(笑)」
アナウンサーとして3年弱、その後も、カナダに留学し、帰国後は会社勤めを経て起業、同時にフリーアナウンサー、アナウンススクール講師、フィギュアスケート解説者、フィギュアスケートインストラクターなど、フリーでの活動も増えていった。
経歴だけ見ると、節目でチャンスをものにしてきた〝できる女〟をイメージするが、河合さんの佇まいに、気負いや押しの強さは微塵もない。
「本来すごく負けず嫌いな性格で、すべて勝ち負けで考えるようなところがありました。それが、がんを境に、勝ち負けとは全く違う価値観が私の中にはっきり生まれたように思います。毎日、今日を生きていることが愛おしくて、ちょっとしたことが嬉しくて。主人と一緒にご飯を食べているとき、飼い猫がかわいく添い寝してくれるとき、もうそれだけで、幸せだなぁ、と。
もちろん、がんにはならないほうがいいですが、私は、がんになってたくさんのことに気づけました。それまで独りよがりに頑張ってきたけれど、周りにはこんなに私を心配してくれる家族や友達がいる、そういうありがたさを1つひとつ、しっかり感じられるようになりました。幸せに対する感度が高くなったのだと思います」
幸せの度合いは、どんな状況であれ、そこで何に気づき、どう感じるのか、で決まるのだろう。幸せとは、決して他人の目から見た〝わかりやすい成功〟ではないのだ。
「2年前に告知されて以降、がんを患いながら、受け入れて明るく生きている人に出会うたびに、勇気をいただきました。だから私も、これからもずっと元気に生き続けていきたい、そう思っています」
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