32歳のとき、ステージⅢCの子宮体がんが見つかったバックギャモン・プレーヤーの第1人者・矢澤亜希子さん(36歳) 子宮体がんになったことが、結果的に世界選手権優勝への道を開いてくれたのです

取材・文●吉田健城
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2017年9月
更新:2017年9月

  

やざわ あきこ
1980年11月生まれ。2001年明治学院大学在学中にエジプトでバックギャモンに出会う。2004年に女性初の日本タイトルを獲得。2012年モナコ公国世界選手権で優勝。同年12月子宮体がんステージⅢCと宣告される。2013年モナコ公国世界選手権史上初の連覇達成。2014年日本人女性初の世界チャンピオン。2016年プレイヤーズオブザイヤー受賞

世界の頂点に立つバックギャモン・プレーヤーの1人である矢澤亜希子さんは、2012年12月に子宮体がんが見つかった。がんはステージⅢC期まで進行していて、命をながらえるには、子宮と卵巣を全摘する手術を受けるしかなかった。手術を受ければこれまでのように世界を股にかけた活動ができなくなる恐れがあったし、子供を持つ夢もあきらめないといけない。絶望的な気持ちになった彼女は、手術を受けるべきかどうか、大いに迷い、なかなか結論が出せなかった。

バックギャモンとの出会いは エジプト旅行

バックギャモンはチェス、トランプ、ドミノとともに、世界の4大ボードゲームに数えられる長い歴史を持つゲームである。愛好者は世界各地に3億人以上おり、毎年、欧米や中東で大小様々な競技会が開催されている。このバックギャモンの世界選手権に優勝した経歴を持ち、女性ながら世界ランキングで第3位にランクされているのが矢澤亜希子さんだ。

彼女がバックギャモンに出会ったのは大学3年生だった2001年のことだ。

「その年、夏休みを利用して紅海でスキューバダイビングをするためエジプトに行ったんですが、その時、カイロやアレクサンドリアの道端やカフェで地元の人たちがバックギャモンに興じているのを見て、自分でもやってみたくなったんです」

矢澤さんは、帰国後バックギャモンを楽しめるスポットを調べ、偶然そこで、日本で初めてプロのバックギャモン・プレーヤーになった望月正行さんや大学のバックギャモン研究会の面々と出会い、このゲームにのめり込んでいった。

大学を卒業後、彼女はゲーム機メーカーに就職したが、バックギャモンの腕が上がってくると、給料やボーナスの大半をつぎ込んで海外で開催されるバックギャモンの大会に参加するようになった。

2016年11月、キプロス大会で対戦中の矢澤さん

早期発見のチャンスを逸した

2003年11月、米ラスベガス・オープンの初級クラスに参加した彼女は見事、準優勝。05年にはデンマークで開催されたノルディック・オープンのダブルスで優勝した。

その一方で国内の大会でも頭角を現し、04年に日本4大タイトルの1つである「盤聖」のタイトルを女性として初めて獲得。07年には「王位」のタイトルも手中にした。

海外で好成績を収め、国内の主要タイトルも獲得したとなれば、次は世界の主要な大会に挑戦したくなるところだが、そうはならなかった。体に異変が生じ、バックギャモンに集中できる状態ではなくなったのだ。

「2008年ごろから生理の出血量がものすごく多くなり、10日以上続くようになったんです。出血は夜用ナプキンが2時間で限界になるほどでしたから、バックギャモンの試合中も出血のことが気になってゲームに集中できなくなったんです」

しかも生理の間、下腹部に刺すような痛みが出たため、矢澤さんは、自宅にほど近いところにある総合病院を訪ねて婦人科の医師に診てもらった。

矢澤さんは自分なりにネットで調べて子宮体がんの可能性があると思っていたので、医師から子宮頸がんの検査をすると伝えられた際、子宮体がんの検査もしてほしいと申し入れたが、あなたのような、やせ型の若い女性は子宮体がんにはなりませんと言われ、あっさり却下された。その医師は、固定観念の強いタイプで、子宮体がんは主に閉経でホルモンバランスが崩れた高齢の女性がなるがんであり、まれに若い女性がなることもあるが、その場合は肥満した人に限られるので、矢澤さんのように痩せ型の体形をしている若い女性(当時27歳)が罹患することはないと初めから決めてかかっていたのだ。

その医師は、月経時の出血の増加は、不規則な生活でホルモンバランスが悪くなり、子宮内膜が肥厚したことによるものと見ていたようで、矢澤さんに、規則正しい生活を送るように言っただけで、治療は何も行わなかった。

「薬も痛み止めのロキソニンが処方されただけでした」

このような経緯で矢澤さんは子宮体がんを早期の段階で見つけるチャンスを逸してしまった。

どうせよくならないなら 好きなことをしよう

毎月多量の出血があると血が薄くなる。ヘモグロビン濃度(血色素量)は正常値(女性の場合11・3~17・5)を大幅に下回る6前後しかなかったため、矢澤さんは、満員電車に乗ると、途端に呼吸が苦しくなった。それでも彼女は自分に鞭打って会社勤務を続けていた。

しかし、体力の低下に伴い会社で精根尽き果たし、バックギャモンのほうにエネルギーを回せなくなったため、思い切って会社を辞め、バックギャモンの大会活動も休止し体力回復に専念することにし、規則正しい生活を心がけ、なるべく血が濃くなるような食物を摂取するようにした。

しかし、体力低下のそもそもの原因が子宮体がんによるものであることがわかっていなかったため、生理時の大量出血、痛み、貧血は全く改善されず、会社を辞めてすべての時間をバックギャモンに使えるようになったのに、棋譜の研究や確率の計算をしていてもすぐに体がつらくなり、横になることが多かった。

2010年が過ぎ、11年に入ってもそんな状態が続いた。そうなると自分の体はもう良くならないのではないか、という気持ちが強くなる。

矢澤さんは、どうせ良くならないなら、好きなことをしようと決意しバックギャモンのプロ活動を開始。依然、体調は最悪の状態だったが2012年から意を決して海外の大会にも出場するようになった。

医師に相談すれば間違いなくドクターストップがかかる状態だったが、彼女は気力で体力の低下をカバーし、キプロスで行われた大会のスーパージャックポット部門で優勝。12年4月にオーストリアで行われた欧州選手権では5種目の決勝に進出する快挙を成し遂げた。さらにその年の夏にモナコで行われた世界選手権のスーパージャックポット部門で優勝し、またたく間に世界のバックギャモン・プレーヤーのトップランナーと見なされるようになった。

手術を受ける決断をした バックギャモン的思考と主人の言葉

インタヴュー中の矢澤さん

しかし、その間にも子宮体がんは徐々に進行していたため、日本に帰国中の2012年10月にひどい出血があり、矢澤さんは驚いて近所の婦人科クリニックに駆け込んだ。

応対した院長は、ひと通り問診と触診を行った後、様々な検査を行い、1週間後に結果を聞きに来るように言った。

翌週クリニックを訪ねた矢澤さんは、子宮体がんの疑いがあると言われそのまま再検査が行われた。

翌週から欧米で開催される3つの大会に出場することが決まっていたため彼女は、世界を東回りに1周してラスベガス、チェコ、キプロスで行われた大会に出場した後、12月下旬に帰国して、その結果を聞いた。

院長から手術や治療が出来るK大学病院を勧められ、日を置かずに紹介状を持って受診すると再度、様々な検査が行われた。

「子宮体がんでした。告知されたときはやっぱりそうだったかという感じでした。最悪の結果でしたからショックはショックでしたけど、その反面、原因不明の体の不調に長い間悩まされていたので、原因がわかってほっとした気持ちもありました」

告知のあと医師から詳しい説明があり、矢澤さんは、

①かなり進行したがんの病巣が子宮の1番奥のほうにあること、

②放置すれば1年しか生きられない可能性もあること、

③外科手術が根治を期待できる唯一の治療法であること、

④がんがかなり進行しているため子宮を温存する手術は無理で、子宮と両方の卵巣と卵管、それに所属リンパ節を併せて摘出する大掛かりな手術になること、

⑤術後は再発を抑えるため抗がん薬治療を行う可能性が高いこと、

等を知らされた。

そのうえで医師から手術を受けるよう勧められたが、矢澤さんは受けたくなかった。

子供を産めなくなるからだ。

「私は2009年に結婚したんですが、結婚して子供ができるというのは、当たり前の未来だと思っていたので、子供がいない未来は考えられなかったんです。それと、主人は結婚してすぐ子供が欲しいと言ってたのですが、私が、まだいろいろやりたいことがあって待ってもらっていたんです。その挙句に子供を作れなくなったので、主人に申し訳なくて、絶望的な気持ちになりました」

それでも最終的に手術を受けることにしたのは、バックギャモン的な思考を重ねた末のことだった。

「バックギャモンの場合、次の手を考えるとき、こうなったらこうなると、いろんなパターンを考えるのです。それが習性になっているので、この時も、ここに手術は受けたくない自分がいるけど、受けなかった場合どうなるか? とか、受けないという選択をしたものの死が迫ってから受けたくなったらどうなるか? とか、いろんなパターンを客観的に考えてみたんです。その結果、手術を受けないという選択をしてしまった場合、後になって手術を受けたくなっても、どうしようもできないので、すごく後悔するだろうなと思ったんです」

手術を選択するもう1つの大きな要因となったのは、ご主人の言葉だった。

「主人からは『今は手術を受けたくないかもしれないけど、手術を受けてみたら、そのあとに来るのは、いい人生なのかもしれない。死ぬのはいつでもできるから、とりあえず手術を受けてみたら?』と言われたんですが、そうだなと思いました」

こうして手術を受ける方向に傾いた矢澤さんは、1月末から米テキサス州サンアントニオで開催された大会に参加し優勝した後、帰国してK大学病院の医師に手術を受けたいという希望を伝え、3月初旬に受けることが決まった。

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