弟・進の盲腸がん、兄・孝の脳溢血を乗り越えたビリー・バンバン 私と兄がほぼ同時に大病になったおかげで『本物の兄弟』になれました
1947年生まれ。東京都国立市出身。青山学院大学卒。1969年兄、孝とデュオを組んだ「ビリー・バンバン」のデビュー曲「白いブランコ」でメジャーデビュー一躍フォークシンガーの代表的存在となる。その後も「さよならをするために」などのヒットを飛ばしNHK紅白歌合戦にも出場。1976年解散。その後再結成し2007年11月、〝いいちこ〟のCM曲「また君に恋してる」が坂本冬美のカバーで大ヒット。2014年7月脳出血で倒れた兄と2人で2016年の秋から本格的コンサート活動を再開。今年9月には昔の曲から最新曲までを収録した「ビリーバンバンオールタイムベスト」を発売。近著に『さよなら涙 リハビリバンバン』がある
ビリー・バンバンの弟、菅原進さんは2014年5月にステージⅢの盲腸がんが見つかり摘出手術を受けた。手術は成功し、彼は順調に回復してゆくが、今度は兄・孝さんが脳出血で倒れ、ビリー・バンバンはデビュー45年目に存亡の危機に立たされた。
糖尿の検診で腫瘍マーカーに異常
1960年代後半から70年代前半にかけてのフォーク全盛期、澄んだ歌声と、清潔感の漂うメロディを売りに登場した兄と弟のデュオがあった。ビリー・バンバンである。
ビリー・バンバンは1969年に登場するとデビュー曲「白いブランコ」がいきなりヒット。1972年には「さよならをするために」がシングルの売り上げ80万枚を超す大ヒットとなり紅白歌合戦にも出場した。
しかし、その後、兄・孝さんと弟・進さんの間の方向性の違いが顕著になったため76年にデュオを解散。兄はテレビ、ラジオ、イベント等の司会者、弟はソロ活動の傍らCMを中心に作曲を手掛けるようになった。
しかし80年代に入ってビリー・バンバンの復活を求めるファンの声が高くなり、2人は84年にデュオを再結成。個人の活動を続けながら、ビリー・バンバンとしての活動を再開させた。
人気デュオやグループの再結成は短命に終わることが多いが、ビリー・バンバンは違った。〝いいちこ〟(焼酎)のCM曲「遅すぎた季節」「今は、このまま」「また君に恋してる」等がヒットしたこともあって再結成後もしばしばヒットを生み、存在感を示し続けてきた。
しかし、この不死鳥のようなデュオも2014年に兄弟が相次いで大病になったことで、存続が危うくなった。
先に大病になったのは弟の進さんの方だった。2014年5月に盲腸がんが見つかり、開腹手術を受けることになったのだ。
がんが見つかったきっかけは、糖尿病の状態をチェックするため月1度受けていた血液検査で、腫瘍マーカー(CEA)に異常が見られたからだ。
進さんは、血液検査を受けていた葛飾区金町のクリニックの医師から、大きな病院で詳しい検査を受けるように勧められ、日を置かずに世田谷区の総合病院を訪ねた。
腫瘍マーカーのCEAは大腸がんが進行期に入ると数値が上がることが多いため、その病院では便の検査が行われ、潜血反応が出たため、次に大腸の内視鏡検査を受けることになった。
「内視鏡検査が終わってから再度診察室に呼ばれて、ドクターから盲腸にがんがあることを知らされました。がんは腸管に深く浸潤(しんじゅん)しており、おそらくステージⅡだろうという話でした」
そのあと医師から盲腸がんがどんな病気で、治療法にはどのようなものがあるか、詳しい説明があった。それによって進さんは、根治(こんち)を目指すには手術で切除するしかないことを知り、なるべく早く手術を受けることを希望した。
たまたま5日後の5月16日に手術室が開いていたため、進さんは日を置かずに入院して開腹手術を受けることになった。
病院から帰宅したあと進さんはがんを告知されたことを奥さん、お子さん、デュオのパートナーでなる兄の孝さん、事務所にマネージャーなどに電話で伝えた。しかしお母さんにだけは知らせなかった。94歳という高齢で体力も弱っていたので、ショックで寝込んでしまう恐れがあると思ったからだ。
がん=死病というイメージを強く持っていた進さんは、再起できなくなる可能性があると思い、秋に発売されるCDの最後の1曲を、なんとしてでも入院前にレコーディングしておこうと思った。
「レコーディングは入院当日の午前中に都内のスタジオでやりました。『運命が二度あるなら』という曲でした。そのころには手術に対する恐怖心を乗り越えて達観した気持ちになっていたので、自然体で自分で最高点をつけられるくらいうまく歌えました。人間、澄み切った気持ちになれば、これほどよく歌えるものなんだと思わずにいられませんでした」
レコーディングを終えた進さんは、その日の午後、告知を受けた世田谷区の総合病院に入院し翌々日の午前中、開腹手術を受けた。
手術では虫垂から結腸にかけての腸管が大きく切り取られ、付随するリンパ節も切除された。
ステージⅢに変更されたが抗がん薬は拒否
術後の痛みはどうだったのだろう?
「麻酔が切れてから翌日の朝まで激痛が続きました。ナースコールはしていません。看護師さんを呼んでも、どうにもならないだろうと思い込んでいたので、泣きながら耐えていました」
手術の翌日、進さんは病室に来た主治医から術中に行った病理診断でリンパ節に転移が1つ見つかったので病期がステージⅡではなくⅢだったことを知らされた。
大腸がんの治療ガイドラインでは、ステージⅢの患者に対しては術後の抗がん薬治療が推奨されている。進さんも主治医から再発のリスクを減らすため、抗がん薬治療を受けるよう勧められた。
「使われる抗がん薬や投与方法についても説明があり、携帯用ポンプを使って投与することになるので、抗がん薬の投与を開始する前に、注入口(ポート)を胸に埋め込む手術が必要になるということも知らされました」
ひと通り説明をした後、主治医は抗がん薬治療を行うことに同意を求めたが、進さんは拒否した。
「抗がん薬をお断りしたのは、やった場合、副作用で歌えなくなるかもしれないという思いがあったからです」
その年(2014年)はビリー・バンバン結成45周年の節目の年で、夏にライブが行われることになっていたので、進さんは歌えなくなることが何よりも怖かった。奥さんも抗がん薬を受けることに反対していたので、進さんに迷いはなかった。
主治医の医師は患者の意思を尊重するタイプだったので、進さんの希望は受け入れられた。
ただ盲腸がんは大腸がんの中でも血行性、リンパ性の転移や腹膜播種(ふくまくはしゅ)が起きやすいので抗がん薬をやらない場合は、頻繁に検査を受けて再発や転移の兆候がないかチェックしないといけない。進さんは退院後、月に1度のペースでM病院を訪ねて検査を受けることになった。
「最初の1年間は再発に対する恐怖がずっとあったので、検査のときは毎回不安でいっぱいで、検査のあとドクターから『大丈夫です』と言われるとうれしくて、家に帰ってから〝いいちこ〟を取り出し1人で乾杯していました」
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