わが健康哲学は「備えあれば嬉しい」 大腸がんを克服したエレキの神様・寺内タケシさん
ミュージシャン。1939年、茨城県生まれ。関東学院大学在学中よりプロ活動を開始し、63年にブルージーンズを結成。ヒット曲に『運命』『津軽じょんがら節』など多数あり、そのギターテクニックから『エレキの神様』の異名をとる。
エレキギタリストの草分け、寺内タケシさんは、現在、市民へのがん知識の普及・啓発などを行っているNPO法人「群馬がんアカデミー」の理事として、患者の視点からさまざまな提言を行っている。このような活動をするようになったのは、10年前、大腸がんを早期に発見し、手術後ひと月足らずでステージにカムバックできた経験があるからだ。
旧ソ連の白血病の少女から来た手紙
寺内タケシさんは、がんと浅からぬ縁がある。
1970年代後半から80年代前半にかけて、寺内さんはロシア、当時は鉄のカーテンの向こう側だったソビエト連邦で演奏ツアーを行い、3回のツアーで520万人を超える観客を集めている。これは1人の白血病の少女から来た、ファンレターから始まったものだった。
「その少女はシベリアのノボシビルスク在住のエリーナという子でした。エリーナのお父さんは国営通信社のカメラマンで、日本に行った友人からおみやげにもらった僕のLPを娘に聞かせたら、熱烈なファンになったそうです。はじめは本人からキリル文字(ロシア文字)で書かれたファンレターが来たんですが、その後お父さんから、白血病の娘のために無理とは思いますがぜひロシアで演奏を聞かせたいという手紙が来たので、1週間くらい夏休みを利用して行ってこようと思ったんです」
情を重んじるタイプである寺内さんは、ソ連行きを決意するが、当時は東西冷戦の真っただなかである。ソ連大使館経由で渡航を申し入れたが、あっさり断られてしまった。
しかし寺内さんはそれでも諦めず、ソ連側に金儲けに行くのではなく、あくまでも白血病の少女に、自分の音楽を聞かせて元気づけるのが目的であることを説明して善処を促した。
その後ゴスコンツェルト(国家音楽委員会)の総裁が、NHKホールでやった僕のコンサートを聞きにきて、ぜひ来てほしいということになったんです」
旧ソ連全域を回る演奏ツアーへ
ゴスコンツェルトからの招待が実現した後は話がトントン拍子に進み、1976年夏、寺内さんはソ連全域を回る演奏ツアーをやることになった。
寺内さんはお土産に『いとしのエリーナ』という曲を作って旧ソ連に向かった。
「横浜から船で3日かけてナホトカまで行き、ナホトカからハバロフスクまでは列車、ハバロフスクからノボシビルスクまではアエロフロート・ロシア航空の飛行機でした。ノボシビルスクに着くと、すぐにエリーナの入院している病院に向かいました。美術館のような立派な病院で、エリーナはそこの小児病棟にいました。白血病は感染症が怖いので部外者と長く接してはいけないと言われていたので15分くらいの面会でしたが、彼女も両親も、感激して泣いていました。僕も涙が止まりませんでしたね」
寺内さんが白血病の少女のために作曲した『いとしのエリーナ』は大きな反響を呼び、当時の記録を見ると、ソ連のナンバーワン・ヒット曲になるほどの人気だった。
それもあって、寺内さんが各地で開いたコンサートには万を超える聴衆が詰めかけ、白血病の少女を見舞いに行きたいという小さな善意から出発した話は、大きな民間外交となって花開いた。
いくら多くの聴衆が詰めかけても、寺内さんが受け取るのはドルではなくルーブルである。ほとんど互換性がないため、寺内さんは3000万円も私財を使うことになったが、エリーナの闘病の精神的な支えになることができて、大いに満足だった。
東京湾の上で知った大腸がんという事実
寺内さん自身ががんになったのは、それから4半世紀が過ぎた2001年のことだ。場所は大腸のS字結腸だった。
「Gさんという親しくしているお医者さんが群馬県にいて、毎年彼の病院で人間ドックを受けているんだけど、2001年の9月に受けた際、便に潜血反応(*)が出たんです。そのため11月に再検査を受けたところ、S字結腸に親指大のポリープがあることがわかったんです」
12月に入ってすぐ、寺内さんはそのポリープを除去する内視鏡手術を受けた。
大腸のポリープはその多くが良性だが、検査の結果、寺内さんのポリープは悪性であることがわかった。
そのことを告知されたのは病院の診察室ではなかった。
「告知されたのは東京湾の上です。G医師はクルーザーを所有していて『久しぶりに海に出ませんか』と誘われたので、行ったら『ポリープは悪性でした。2週間ぐらいスケジュールを空けられませんか』と言われたんです。
ショック?思ったほどありませんでした。病気になったら治せばいい。がんになって手術をする必要があるのなら、手術を受ければいい。大腸がんと告げられて思ったほどショックじゃなかったのは、くよくよする気持ちよりも、そういった気持ちのほうが大きかったからだと思います」
*潜血反応=見た目にはわからない微量の出血反応
手術でがんの部分とまわりのリンパ節を切除
大腸がんを告知された寺内さんは、スケジュールを調整して02年2月中旬、G医師の紹介で群馬大学医学部付属病院に入院し、手術を受けることになった。
寺内さんにとって幸いだったのは、手術が開腹ではなくダメージの少ない腹腔鏡下手術で行われたことだ。手術は、腹腔鏡のエキスパートである消化器外科のA医師の担当で行われ、S字結腸を15センチとまわりのリンパ節を切除して1時間半ほどで終了した。
術後の痛みはどうだったのだろう?
「手術の前に、痛みはたいしたことないと聞いていたので軽く考えていたんですが、術後2、3日はかなり痛みました。尿管がイヤで手術の翌朝に外してもらい60メートルほどの距離を歩行器で歩いたんですが、傷口が痛くて、これが難行苦行の道行きになりました。主治医の先生からは『痛みはたいしたことない』と聞いていたので、話と違うじゃないかと思いましたが、後で聞いたら『開腹手術に比べれば痛みは軽いということであって、かすり傷程度の痛みで済むということではない』と言われ納得しました」
寺内さんは、自身の手術を振り返って思うところがあるという。それは、医療従事者は、もっと治療にあたって患者の気持ちを和らげるために工夫を凝らすべきだということ。
「手術当日、手術室までストレッチャーに乗って移動したんだけど、必然的に乗せられているほうは上を見るでしょ。そしたら天井とかが小汚くて、あまりいい雰囲気じゃなかったんです。なぜ医師や看護師は、下手な字でもいいから『頑張って元気で帰りましょう』とか『笑顔と笑顔でお送りします』みたいなキャッチコピーを貼らないんですかね。それを読むだけでも、患者は少しでも元気になるじゃないですか。
それに、手術室に入ったら、BGMで安らぎの音楽が流れていたんですよ。どうして患者の好みで音楽をかけられないのか、と思いましたね。カラオケのスタジオでも、リクエストをとるぐらいなのに……。僕なんかハードロックが好きだから、ガンガンかけて手術してほしかったですね」
このように思うところはあったものの、手術は無事終了。術後の痛みも、日を追うに連れて和らいでいき、4日目には流動食の摂取が始まり、8日目には普通食になった。
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