進行肺がんの手術後4カ月で現役復帰し、来年プロ生活50周年を迎える安田春雄さん
がんになって、ギアチェンジする生き方をマスターした
安田 春雄 やすだ はるお
1943年1月19日生まれ。東京都世田谷区出身。師匠は中村寅吉プロ。18歳でプロ入り。初優勝は68年の中日クラウンズ。その後、ダンロップ、日本マッチプレー選手権などを制し国内通算15勝。海外でもフィリピンオープンなどで3勝。93年にシニア資格を得てからはTPCシニア、旭国際ヴィンテージなどで優勝。70~80年代に『安田春雄の実戦ゴルフ』などレッスン番組でも活躍
咳が止まらず、トーナメントを棄権
ドライバーショットの豪快なフォームはいまだ健在
昔からのゴルフファンなら、ゴルフ人気が急速に高まった60年代後半から70年代前半にかけて、「安田春雄プロ」の演じる名勝負に何度も胸を躍らせたのではないだろうか。
安田さんは、切れ味抜群のアイアンショットを武器に数々のビッグトーナメントを制し、河野高明プロ、杉本英世プロとともに「和製ビッグスリー」の一角を担った。その後、ゴルフ界はひとまわり若い青木、尾崎、中嶋のAONの時代に入るが、安田さんは、トーナメントに参加するかたわら、高い技術と持ち前の歯切れのいい話術を買われてテレビにも度々出演、多いときはレギュラー番組を4本も持つ売れっ子だった。
50歳を過ぎてからは主戦場をシニアツアーに移したが、ここでもコンスタントに上位入賞を果たし、プロゴルファーとして息の長い活躍を続けていた。
そんな安田さんが肺がんと診断されたのは、還暦を迎えたばかりの03年4月のことだった。
「僕は毎年2月に、ツアー開幕に備えてひと月ほど万木城カントリークラブ(千葉県)で合宿をしていました。03年も合宿をしたんですが、途中、咳が止まらなくなることがよくあったんです。合宿が終わって病院で診てもらったら、『花粉症だろう』って言われて、処方された薬を飲んだけど、よくならないんです」
そうこうするうちにトーナメントが始まった。
ゴルフでは、同じ組の選手がボールを打つとき、一緒に回っている選手は絶対に物音を立ててはいけない。最初の大会に出たさい、安田さんは序盤から咳をこらえるのに苦労し、3ホール目が終わったところで棄権した。ただの花粉症や風邪でないことを確信した安田さんは、すぐに病院でCTなどを使った詳しい検査を受けた。
「画像を見せてもらうと、右肺の下のほうに大きな白い影があったんです。『これは、がんだな』と思いました。すぐに大きな病院で精密検査を受けるように言われたので、東京のある大学病院に検査入院して調べてもらったら、やっぱりがんで、しかも、相当進んでいたそうです。僕はヘビースモーカーだったのですが、先生は『これはタバコによるがんです』と言っていました」
肺がんは、腺がん、扁平上皮がん、小細胞がん、大細胞がんの4種類がある。そのうち、タバコと関係が深いのは扁平上皮がんだ。扁平上皮がんは大半が肺の入り口に近い肺門部にできるが、気管支の先端にできることもあり、安田さんはこのタイプだった。
胸腔鏡下手術の名手に巡り会えた
医師は安田さんに、がんはかなり大きく、肺の中にとどまってはいるが、リンパ節に転移していることを告げ、なるべく早くがんの病巣がある右肺下葉の手術を受けるよう勧めた。
「がんはもたもたしていると肺からまわりの臓器に広がってしまい、そうなると、5年生存率は10パーセントくらいになってしまうという話でしたので、すぐに腹を決めました」
問題は手術の方法だった。
肺がんの手術では、胸部に大きくメスを入れて、肋骨の一部を切除しないといけない。そうなると筋肉や神経は大きなダメージを受けるので、そのあとにプロゴルファーとしてやっていくことは不可能だ。30代、40代なら、時間をかけてリハビリをすれば再起は十分可能だが、安田さんはすでに60歳。それは望むべくもなかった。
「勝負師として生きてきたんで、『ゴルフができなくなったら、生きていても仕方がない』という気持ちでした。死に対する恐怖感みたいなものは全然なかったけど、ゴルフができなくなることには大きな抵抗感がありました」
安田さんが強運だったのは、精密検査を受けた大学病院の本院に、胸腔鏡下手術のエキスパートがいたことだ。当時、助教授だったI医師である。
03年当時、胸腔鏡下手術は初期の肺がんにのみ行われることが多かったが、この手術のパイオニア的存在であるI医師は、進行がんの治療にも胸腔鏡下手術を行って顕著な実績をあげていた。大学病院でそのことを聞かされた安田さんは、すぐに本院に入院することを決めた。
「胸腔鏡を使った手術は、体を大きく切らずに小さな穴を3カ所開け、そこから小型のビデオカメラを装着した棒状の器具を差し入れて、テレビモニターを見ながら行うので、ダメージが少ないという話でした。プロゴルファーを続けられる体で退院するには、これしかないと思ったし、I先生が世界でも数少ない胸腔鏡下手術の名手だと聞いたので、すぐにお願いしたんです」
トーナメントに1日も早く復帰したい
安田さんは4月初旬に入院し、2日後に手術を受けた。手術ではまず右肺の下葉を切除。そのあと、喉に近いほうのリンパ節(肺門リンパ節、縦隔リンパ節)を切除して無事終了した。がんはリンパ節の4カ所に転移していた。
術後はドレーンが留置されているので、3~4日動けなかったが、それが取れたあとは歩行を開始した。点滴の装置を引きずったまま、病院内を長く歩くわけにはいかないので、術後10日目くらいからは散歩がてら、病院の近くにある小高い山に登って足の衰えを防いだ。また、病院食だけでは痩せてしまうと思い、奥さんに運んでもらった食事もせっせと食べた。
「入院中、ずっと考えていたのはトーナメントに1日も早く復帰するということ。僕らは出場権というのがあって、1年休んじゃうと、また予選会から出なくてはいけないんです。シニアになったとはいえ、その仕組みは変わりません。それがトーナメント・プレーヤーの泣き所なんです。そのためには体重を落とせないという頭があったので、食事を余計に食べたのですが、逆に食べ過ぎて体重が10キロ近く増えてしまいました(笑)」
退院後は、自宅からの通院による抗がん剤治療と放射線治療がほぼ同時に始まった。
「初めは抗がん剤を1カ月ぐらい点滴で投与された記憶があります。抗がん剤の名前は覚えていません。事前に頭の毛が抜けるとか、強い吐き気が出るとか、いろんな副作用が出る可能性があると言われていたんですが、僕の場合は目立った副作用はありませんでした。放射線照射は30回受けました。がんが転移した喉のところのリンパ節に照射したんですが、その影響でしばらく咳が出ました」
抗がん剤は、点滴投与するタイプのものが終わると、引き続き、錠剤の抗がん剤を飲むよう言われた。が、安田さんはそれを飲まなかった。
「知り合いから、経口抗がん剤はがんを治すためでなく、再発の可能性を数パーセント低くする程度の目的で使われるだけなので、長期投与で臓器が弱ることやさまざまな副作用が出ることを考えれば、私のような現役ゴルファーはやらないほうがいいとアドバイスされたんです」
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