今しかできないオシャレを楽しむことで治療に前向きになれた、モデル・MAIKOさん
脱毛をスキンヘッドにして楽しむ逆転の発想で治療を乗り切った
MAIKO まいこ
1969年、東京都に生まれる。高校卒業後からモデルを始め、国際的なショーもこなすトップモデルとして活躍。現在も『STORY』などのファッション誌やTVCMなど、第一線で活躍中。著書に『モデル、40歳。乳がん1年生。』(KKベストセラーズ)がある
公式ブログ「MAIKOのHAPPY TALK」
95パーセント大丈夫が一転、「全摘」に
(光文社 STORY 07年8月号より 撮影/西出健太郎)
トップモデルとしてファッション誌、TVCMなど幅広い分野で活躍しているMAIKOさん。
そのMAIKOさんが、乳房に小さなしこりがあることに気がついたのは一昨年(08年)10月のことだ。お母さんが乳がんのサバイバー(*)で自分もリスクが高いという意識があった彼女は、近所の婦人科を訪ねた。
しかし、その婦人科では十分な検査ができないため、医師は総合病院を紹介した。
彼女は、さっそく紹介された病院を訪ね、触診、エコー、針生検、マンモグラフィを受けた。
このときは医師から「最終的な判断は検査結果を見ないとなんとも言えないが、95パーセント大丈夫でしょう」と言われた。
しかし1週間後、彼女を待ち受けていたのは楽観的な予測とは正反対の結果だった。
「検査の結果、『悪性でした』と告げられたんです。『しこりは2センチくらいだけど全摘手術をおすすめします』と言われたので、ショックもショック。悪性と全摘ということばで、ノックアウトされた感じでした」
*サバイバー=がんを克服あるいは長期にわたってがんと共存し、がんとともに、生ある限り人間らしく、自分らしく生きようとする人々
人生で初めてこんなに泣いた
病院を出たあと、涙がとめどなく出た。
モデルという職業にとって、全摘手術で片方の乳房を失うことはビジュアル的に大きなダメージを受ける可能性がある。学生時代からモデル一筋で、愛する息子との2人暮らしもモデル業で生計を立てている。
打ちのめされたが、95パーセント大丈夫と言われたものが正反対の結果になったのだから、全摘しかないと言われたものが正反対の結果になることだってある。そう考えた彼女はセカンドオピニオン(*)を受けることにした。セカンドオピニオンは、所属事務所(オスカープロモーション)が手配してくれた病院で受けた。診察にあたった医師は、前の医師の事務的な口調とは違い、親身になってわかりやすいことばで説明してくれたので好感が持てたが、すすめられた治療内容は同じだった。
「短期間にこんなに泣いたのは初めて。仕事が仕事ですから、病気以外にも心配することがたくさん出てきてしまって」
*セカンドオピニオン=「第2の意見」として病状や治療法について、担当医以外の医師の意見を聞いて参考にすること
「全摘」のはずが、土壇場で「温存」に
まだ、全摘という宣告を受け入れられない彼女はサードオピニオンを受けることにした。訪ねたのは都心にある乳がん分野では国内トップレベルの治療実績を誇るS病院。しかし、ここでもY医師から伝えられた結果は、「全摘」だった。それでも彼女は、それを落ち着いた気持ちで受け入れることができた。
「精神的に落ちついてきたのは、Y先生にお会いしたことが大きかったですね。初めて診察を受けたときに、優しい笑顔で『大丈夫ですよ』と言ってくださったので、それがずいぶん救いになりました。それとセカンドオピニオン、サードオピニオンの病院で連日つらい検査をしていくうちに、乳がんを受け入れていかないといけないという気持ちが強くなりました」
Y医師からは、「最終的な治療方針は病理検査の結果を見て決めることになる」と伝えられていたので、この段階では「全摘やむなし」と腹をくくっていた。ところが病理検査の結果を聞くためにS病院を訪ねたMAIKOさんは、Y医師から思いもよらない朗報を聞く。
「Y先生から、『温存でいきましょう』と言われたんです。思ってもみなかったことばでした」
最初の診察で「95パーセント大丈夫」と言われたものが、「全摘」になり、サードオピニオンで「温存」というジェットコースターのような展開。これを乗り越えることができたのは、精神的な支えになる人が何人もいたからだ。
1番大きな支えは中学3年生の息子
告知後、真っ先に電話をしたのは、離婚後も良好な関係が続いている元夫と事務所のマネージャーだった。本当は母に相談したかったが、脳転移している乳がんの治療で入院中だったため、よけいな心配をかけるわけにいかないと思い、まず元夫とマネージャーに知らせた。2人とも「すぐに迎えに行くから」と言ってくれただけでなく、元夫は息子に電話をして「お母さんががんになったから、一緒にサポートしていこう」と息子と固く誓い合っている。事務所のマネージャーも、すぐにセカンドオピニオンを受けられるようにセッティングしてくれた。サードオピニオンは、元夫の母が知り合いのつてで予約を入れてくれたものだった。
しかし、何と言っても1番大きな支えになったのは息子だった。告知された日、彼女は中学3年生の息子にがんのことを伝えようとした。
すると父からの連絡で、先に事実を知らされていた息子は、「できることは何でもやるから」と申し出てくれた。思わず抱きしめると、「大丈夫だから」と力強く励ましてくれた。そのことばを聞いた彼女は、息子のためにも、『がんになんかに負けていられない』という気持ちになることができた。
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