ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている 術後1年余で「絶望的だった」リングに復帰した プロレスラー・藤原喜明さん

取材・文:吉田健城
撮影:明田和也
発行:2010年2月
更新:2019年7月

  
藤原喜明さん

ふじわら よしあき
1949年4月27日、岩手県に生まれる。1972年、対藤波辰巳戦でデビュー。サブミッションレスリング(組技格闘技)に傾倒、その実力者ぶりから「関節技の鬼」として知られる。藤原門下生はプロレス界に多数存在。現在は、俳優のほかナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラスト等の特技も多彩。

胃がんはかなり進行するまで自覚症状がないことが特徴で、がん検診を1度も受けたことがない人では手遅れの状態になってから見つかることも多い。「組長」のニックネームで人気の藤原喜明さんも、58歳までがん検診を1度も受けたことがなかった。しかし、手遅れになるぎりぎりのところでがんが見つかったのは、1人の末期がん患者との出会いだった。

「箸の使い方が下手ねぇ」ががん発見のきっかけ

写真:2005年12月29日、ビッグマウスラウド戦(後楽園ホール)でのファイト

2005年12月29日、ビッグマウスラウド戦(後楽園ホール)でのファイト

がんは、ほかの疾患やケガで病院に行ったことをきっかけに見つかることがよくある。藤原喜明さんの場合もそうだった。

藤原さんの場合、きっかけになったのは右肘の神経の異常だった。

07年夏、藤原さんは重病が癒えて退院した友人の快気祝いの席に招かれて飲んでいた。酒が入ってざっくばらんな雰囲気になったところで、同席した年配の女性が、藤原さんが箸でつかんだものを何度もこぼすのを見て「箸を使うのが下手ねぇ」と冗談交じりに言った。

「長年酷使してきた肘の調子が悪く、箸でつまんだものをよくこぼすようになっていたんです。そのことを話すと、そのおばさんが『病院を紹介するから、診てもらったほうがいい』と言うんで、いつまでもこれじゃあマズイという気もあったんで、紹介された病院に行ったんです」

訪ねたのは、北関東にある総合病院の整形外科だった。診察で原因が肘の神経にあることがわかったため、藤原さんは切開手術を受けることになった。

肘の切開手術後も整形外科には何度か足を運ぶ必要があったので、藤原さんは、どうせ遠いところまで足を運ぶのだから、ついでに大腸と胃の検査も受けておこうと思った。

その結果、胃の検査でがんが見つかったのである。07年9月のことだった。

「1週間後に結果が出るという話だったんだけど、2~3日して事務所に電話が来て『残念な結果が出ました』と言われたんです。『がんですか?』って聞いたら『がんです』と言うんで、がーん、という気持ちだったね」

と、お得意のダジャレ交じりに語るが、「がんです」と聞いたときは、一瞬、『死ぬんだ』と思ったという。

その後、病院に1人で出かけた藤原さんは、胃の噴門部(入り口)に近いほうに4センチ大のがんがあり、なるべく早く入院して手術を受けるように勧められた。

「こんな場合、普通だったらセカンドオピニオン(第2の意見)を受けるのだろうが、俺は面倒なのは嫌いだから、『先生が切ってください』とお願いしました。K先生は俺より1つ年下のベテランで信頼のおける先生でした。本当は全部切ったほうがいいんだけど、それだとガーッと痩せちゃうでしょ。俺はプロレスをやってるから、それは避けたいということで、2分の1の切除になったんです」

10月3日に入院した藤原さんは、5日にK医師の執刀で手術を受けることになった。手術当日はストレッチャーに寝せられて手術室に運ばれるのがイヤだったので、下駄履きで手術室まで歩いていき、「手術室って、調理場みたいだなあ」と迷セリフを吐いてから手術台に乗った。

手術では、まず胃の上半分を切除し、そのあと小腸を10センチほど切り取って食道と胃の断端をつなぐ空腸間置が行われた。胃を切除した際に、周辺リンパ節と胆嚢も併せて切除されている。空腸間置を行うのは食道と胃の断端を直接つなぐと食べ物や胃液が逆流し、強い胸焼けを起こすからだ。

プロレスラーが痛がっちゃあみっともない

写真:2取材中、腹に刻まれた縦一文字の手術痕を見せてくれた藤原さん

取材中、腹に刻まれた縦一文字の手術痕を見せてくれた藤原さん

手術は予定通り、3時間で終了した。しかし、術後の4日間、藤原さんは地獄のような痛みに苦しむことになる。

「ものすごく痛かったんですが、皆が我慢しているのに、プロレスラーが痛がっちゃあみっともないと思ってたんです。モルヒネ(がんの痛みを緩和するために使われる医療用麻薬)を知っていれば頼んだろうけど、知らなかっただけなんです。ほかの患者たちも、みんな痛いのを我慢しているんだと思っていました。手術後に集中治療室に入れられたとき、隣で寝ている人がしょっちゅう咳をしているんで、よく傷に響かねえな、と思っていました」

絶えることのない激しい痛みに、藤原さんは夜もほとんど眠れなかったが歯をくいしばって時間が過ぎるのを待った。

「こんなときは、眠るに限ると思って眠りました。自分でだいぶ我慢したなーって思って時計を見ても、まだ2~3分しかたっていない。その繰り返しですよ。4日目に部屋に来た付き添いが『痛み止め、やってないでしょ』って言うんで『そんなのあったの? じゃあ、やってよ』って看護師さんに頼んだら、すぐにやってくれて、それで急に楽になったんです。翌日は調子最高でした」

1番ショックだったのは肉がげっそり落ちた体

その後の回復は順調で、5日目に水の摂取、6日目からは食事が出るようになった。

「食事は重湯から入っていくんだけど、味がなくて鼻水みたいなんですよ。下の売店へ行って梅干を買ってなんとか食べたけど、物足りないんで次の日にこっそりお握りを買って食べてました」

手術後、1番ショックを受けたのは術後8日目に初めて入浴したときだった。

「鏡を見たら、肉がげっそり落ちておじいちゃんの体なんですよ。体重計に乗ったら87キロしかない。普段は108キロです。手術前、ヒザが悪かったので減量して100キロくらいまで落としていたけど、87キロというのはショックで、こりゃ体を鍛えなきゃダメだと思ったんです。すぐに1回20分の散歩を3回と、プッシュアップ(バーを握って行う腕立て伏せ)もちょっとやったんです。そしたら、翌日熱が出てしまいました」

それから、数日して藤原さんはK医師から病理検査でリンパ節転移が見つかったことを知らされた。

それによって、病期は3a期と確定した。

K医師は3期の5年生存率は41.8パーセントだが、2年間再発を抑えることができれば格段に生存率が高くなるので、すぐに抗がん剤治療を開始することを告げた。

「婦長さんが気の毒そうな顔で『(リンパ節転移のことを)聞きましたか?』って言ってたけど、落ち込むようなことはなかった。5年生存率が4割だって言われても、俺は10のうち6勝すれば生きられるんだろうと思うほうですから」

術後18日目に、抗がん剤治療が始まった。TS-1(一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム)の単剤で4週間服用、2週間休薬を1クールとし、それを6クール行うというものだ。TS-1は胃がんの場合、奏効率は46パーセントと高く、副作用も抗がん剤の中では比較的強くないとされるが、87パーセントの患者に何らかの副作用が出る。

「1クール目から気持ちが悪くなって何も食えなくなりました。下痢もしょっちゅうで、匂いにもすごく敏感になりましたね。歯茎から血が出たこともあります。何も食べられないのがつらいんで、K先生に頼んで途中から薬を減らしてもらったんです。朝晩3つずつにしていたのを2つずつにしたら、だいぶ副作用が軽くなりました」

TS-1を予定通り、6クール続けたあと、薬が同じ5-FU系の経口抗がん剤UFT(一般名テガフール・ウラシル)の少量投与にかわった。これで副作用もほとんど無くなり、筋力トレーニングができるようになった。手術の後遺症としては、ダンピング()が出た。

「はじめは冷や汗が出て何だと思ったけど、一時的に血糖値が下がるからだとわかってからはダンピングの兆候が出ると飴玉をなめるようにしていました」

ダンピング=食物が胃にとどまらずに、急速に腸まで落ちてしまうこと。胃の中で撹拌され、少しずつ腸に送り出されていた食物が、胃切除後は、未消化のままいちどに腸に流れ込むため、血糖値の変動や各種ホルモン分泌などによって、不快な諸症状が起こる


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