乳がんの全身転移と闘いながらフル回転で創作活動を続ける、漫画原作者・有里紅良さん
がんは気合で治せる病気ではないが、気合で生き続けられる病気です
有里 紅良 ありさと あから
1961年、北海道生まれ。虫プロダクションに所属。フィルム編集に20年間従事し、デジタル化に伴い、引退。プロデビューした夢来鳥ねむの原作協力をするうち、本格的に作品の設定づくりに関わるようになり、自らも小説の執筆を行う。現在、有限会社La・Moonの代表取締役を務め、企画・脚本・演出と、多岐にわたるアイディア力・構成力でイベントを作り続ける
しこりを1年以上放置
作業場で原稿を執筆する有里さん
マンガの製作現場はどこも「雑然」「夜型」「体力勝負」という言葉が三位一体になっているものだ。筆者はマンガ雑誌を主力とする出版社に10年以上勤務していたことがあるので何度かマンガ家の製作現場を尋ねたことがあるが、どこも様々なものが雑然と置かれた仕事場で深夜まで先生とアシスタントが仕事と格闘していることが多かった。それに加え、マンガの世界は新陳代謝が激しい。原作者の彼女が絵のほうを担当する夢来鳥ねむさんとコンビを組みながら孫のできる年齢まで第一線で活躍していることは賞賛に値する。しかも、有里さんはがん患者なのだ。それも、緩和ケア科で治療を受ける末期がん。
彼女が乳がんと診断されたのは99年3月のことだが、その1年以上前から右の乳房にしこりができていることに気付いていた。誰しも乳房にしこりがあれば、乳がんを疑って病院に駆け込むものだが彼女はそうしなかった。
「母も甲状腺がんだったんですが、20年くらい放っておいてから摘出したんです。だからがんになってもパニックになるようなことはなくて、漠然と自分もそういう体質だろうと思っていたんです。もちろんヤバくなったら病院に行かなくちゃ、という気持ちはありました。99年に入って出血するようになり、大きさも1、2センチくらいだったものがゴルフボールぐらいにまでになったので3月にイベントが終わって仕事が一区切りついたところで当時大塚(東京)にあった癌研病院に行ったんです」
幸い、有里さんのがんは4センチくらいまで大きくなっていたものの、リンパ節転移の可能性は低いと判断されたため、入院後すぐに乳房全摘手術を受けることになった。手術は無事終了し、細胞診でもリンパ節転移は見られなかった。しかし、がんが大きかったため、退院後、再発を抑えるためにタモキシフェン(商品名ノルバデックス等)によるホルモン療法が始まった。ホルモン療法は通常5年が目安だが、彼女は1年くらい続けただけでやめている。
「のぼせ、ほてり、倦怠感といった副作用は出なかったんですが、お腹の具合が悪くなるんで、1度服用をやめたらそれっきりになってしまったんです。血液検査だけは半年に1回受けていたんですが何の問題もないということだったので、忙しさにかまけていつの間にか飲まなくなってしまったという感じでしたね」
それから2、3年は何事もなく過ぎた。しかし4年目になると、少し無理をしたり、長い間クルマに乗っていたりすると背中からわき腹にかけて痛みが走るようになった。痛みが徐々に増してきたので近所のクリニックに行って診てもらった。診断は、筋肉痛。検査では、がんの再発をうかがわせるような結果は何1つ出ていなかった。しかし、このとき腹腔の奥のほうではがんが副腎に転移し、どんどん大きくなっていたのだった。
副腎に10センチ大の腫瘍
近所のクリニックで処方された痛み止めは効かなくなり、06年になると左大腿部の横にも杭で刺されたような激しい痛みが走るようになった。7月に入って最初の日曜日、彼女はついに痛みに耐えられなくなり、都心にある大学病院を訪ねた。
「そのときは、いくつか検査して痛み止めをいただいて帰ったんです。そしたら、翌日電話がかかってきたんです。夜の9時ごろに。ありえない時間だし、『明日ご家族同伴でご来院ください』ということでしたから、ああ、がんの転移が見つかったんだろうなと思いました」
翌日有里さんはお姉さんや仕事のパートナーの夢来鳥ねむさんに付き添われて大学病院に出向き、医師から左副腎のところにがんとおぼしき10センチ大の影があることを告げられた。背中や大腿に激痛が走ったのはそれが神経を圧迫していたのだ。
詳しい検査の結果、副腎にできた腫瘍は乳がんの転移であることが判明。病巣が大きく深い位置にあること、周囲の神経組織に浸潤していることなどから手術は困難で抗がん剤かホルモン療法でがんを小さくしていくという説明があった。
そのあと入院の話になり、有里さんは医師から「本来ならこのまま入院していただくところですが、ベッドに空きがないので週明けの月曜日に入ってください」と言われた。
病院にパソコンを持ち込んでよいかと尋ねたところ、問題ないということなので彼女はそれを実行。さらにもう1つ医師に驚くようなことをお願いした。
「土日に埼玉の秩父で大事な仕事があるので、参加させてくださいってお願いしたんです」
大事な仕事というのは、土日に秩父で開催されることになっていたファン参加型イベント『KYH七夕オフ会』に参加することだった。ファンに義理を欠くようなことはしたくないという思いのほかに、ファンと直接触れ合って、がんの再発でへこんだ心にエネルギーをもらいたいという気持ちもあった。
「案の定、はじめは反対されました。『あなたは普通だったら立っていられないくらいひどい状態なんですよ。それに熱が38度3分もあるんだから』と。でも、どんなイベントかを説明して食い下がったら、極力安静にしているという条件つきで了承してくれたんです」
このイベントで、有里さんはファンとスタッフが一緒になって熱唱するZARDの『負けないで』に大きな心のエネルギーをもらって入院生活に入った。
入院はしたものの、彼女はわずか11日間いただけで退院している。まだ全然治療していない段階でさっさと退院したのは抗がん剤治療になると言われたからで、多くの患者が通院で抗がん剤投与を受けているのなら自分もそうしようと思ったのだ。
熱や痛みでつらいときも仕事は待ってくれない
『ラルフィリア・サーガ』など有里さんの代表作
術後に始まったのは抗がん剤ではなく、前回とは別の薬剤を使ったホルモン療法だった。 「名前は忘れましたが、そけい部の皮膚に太い注射器を使ってカプセルを埋め込む方式で投与する薬でした。とにかく痛い注射で、入れるときにバツンという音がするんです。これを月1でやりました。副作用ですか? よく38度を超す熱が出ました」
このホルモン療法の効果はすぐに現れ始め、2カ月ほどで10センチ以上あったがんが7センチに縮まった。しかし、がんが縮まっても副作用の発熱に加え、鈍い痛みが頻繁に出て彼女を苦しめた。その当時の心情を彼女は、ラ・ムウン(彼女が主宰する創作集団)のブログ(日記)で次のように書き記している(06年9月28日から抜粋)。
同じ病気でなくなる人たちの訃報が、ずっしりストレスになって背中に乗っている状態でも、仕事は待ってくれません。
泣き出したい気持になることもあります。
イライラしても何もならないと自分をなだめつつ、今何ができるのかを考えています。
癇癪を起こしたところで解決になんかならないですからね。
まだたくさん残したいものがあるんだからと歯を食いしばります。
戦っているのは自分だけじゃないと言い聞かせ、歯を食いしばります。
穏やかでいられない日も多いけれど、穏やかに笑える日が来ることを信じて、1日1日を大切に暮らしていこうと思いました。
微妙にぐちっぽいな、今日は(苦笑)。
お天気が良かったのに、熱で1日臥せっていたのが悔しかったせいかな。
悔しくて買い物に行ったら、疲れて夕飯の支度が中途半端になってしまってさらに萎え。
考えること決めなくちゃいけないことが山ほどあるのに手が付かずグルグル。さらに凹む。
いかんいかん、急がば回れだ。こんな日はお風呂に入って早めに休もう。明日朝一の仕事も入っているしね。
彼女はつらい心情をこのように書き記しているが、いくら精神的に落ち込んでも自力で気持ちを立て直すことにこだわり、医師に勧められても精神安定剤や抗うつ剤は拒否し続けた。
「私はうつ病というものに以前から厳しい見方をしていて、うつになる人には『なんちゃってうつ』が少なくないと思っているんです。それと作品の中で私とねむちゃん(夢来鳥ねむさん)は、諦めなければ必ず自分の目的はかなうということを書き続けてきたので、自分がうつになるわけにはいかないという気持ちだったんです」
このような考えで彼女は薬を拒否し、たびたび精神的に落ち込みながらも徐々に自分が置かれた状況に精神を適応させることでメンタル面の問題を解決していった。しかし、痛みの問題は自力で耐え抜こうとしても、どうにもならなかった。
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