「がん以後、泉のように曲が湧いてくる」と語るシンガーソングライターの松田陽子さん
がん、うつ、離婚・・・どん底から這い上がったど根性

取材・文:吉田健城
撮影:向井渉
発行:2009年8月
更新:2013年8月

  
松田陽子さん

松田 陽子 まつだ ようこ
シンガーソングライター、司会、通訳として活躍しているアーティスト。がん、うつ病を克服し、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)駐日事務所広報アドバイザーとして、難民支援のために、数々のチャリティーイベントを開催する。07年より、ボランティア団体『self』の代表を務める。08年、初アルバム「生命」をリリース


「ショックというよりは、夢を見てるみたいでした」

写真:ライブ
現在は東京、名古屋、大阪でライブ活動を行っている
写真:府知事選挙戦で
府知事選挙戦では、橋下徹・現知事の専属司会者を務めた

松田陽子さんは、マルチ才女だ。シンガーソングライターとしてメッセージ性の強い曲を発表し、ライブやイベントで歌う一方で、語学力を生かしたイベントの司会や、ラジオ・テレビのパーソナリティとしても活躍している。ときには、最強の格闘家ホイス・グレイシーなどの通訳の仕事もこなす。これらの活動に加えて、松田さんは難民支援活動にも多くの時間を割いている。ボランティア団体『self』の代表として、チャリティライブや支援イベントを度々開催。現在は、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)駐日事務所の広報アドバイザーとして公式イベントなどで司会を務めている。また地元大阪では府知事選挙の際、橋下徹・現知事の専属司会者を務めた元気なお姉さんとしても知られている。

その松田さんが子宮頸がんを告知されたのは、2002年のことだ。その前年に、女の子を出産。育児に追われていたため、その頃は、歌や司会などの仕事を休業し、専業主婦に近い状態であった。子宮頸がんの場合、病期が0期や1期の前半ではほとんど症状はみられないが、2期以降など、がんが進行すると、不正出血や下腹部痛、腰痛などの症状が出ることがあるが松田さんの場合は腰痛だった。

「出産で骨盤が開いたし、子供をしょっちゅう抱っこしているので、それで腰が痛くなったんだと思って、はじめは近所の整形外科や整骨院に行ったんです。でも、いろいろ行ったのに治らなかった。整骨院の先生に、『内科で診てもらったほうがいい』と言われて近くの婦人科で検査を受けたら、子宮頸がんの疑いが強いことがわかったんです。電話で先生から知らされたんですが予想していなかったことでしたから、ショックというよりは、現実味がなくて、夢を見てるみたいでした」

幼い我が娘を見て、「生きぬかなきゃ」と思った

松田さんはその婦人科の院長から子宮がんの治療で実績のある東大阪市の総合病院を紹介され、CT(コンピュータ断層撮影装置)、エコー(超音波検査法)、MRI(核磁気共鳴映像法)などを使った詳しい検査を受けた。

その結果「限りなく2期に近い1b期の子宮頸がん」と診断され、主治医からすぐに入院して子宮の全摘出手術を受けることを勧められた。30歳だったため、年齢的にがんの増殖が速いからという理由だった。当時の子宮頸がんの5年生存率は、1期で82パーセント、2期で63パーセント(日本産婦人科学会2001)。しかし、この数字は幅広い年齢層の単純平均にすぎない。年齢が若くなればなるほど、リスクはどんどん高くなる。

主治医は、「治療開始が遅れるとあなたの年齢では5年生存率はフィフティ・フィフティまで下がる」と警告した。その説明を受けて早期に手術する必要があることを理解し、6月初旬に入院し、全摘出手術を受けた。

「子供を1人産んでいるので、子宮を失うことに対する抵抗感はなかったです。それより、オムツを履いて、よたよた歩いている娘を見ると、平凡だけど、せっかく手に入れた幸せなんだから生きぬかなきゃなと思いました。がんははじめ、CTにけっこう大きく映っていたので肺や肝臓への転移が心配されていたんですが、うまい具合に膜が張ったみたいな形になって、ほかに転移していないことがわかったので卵巣は残せることになりました」

手術は、4時間半に及んだが無事成功。病理検査でも、リンパ節転移は認められなかった。

退院後、今度はうつとの闘いが始まる

術後の経過も、順調だった。2、3日は激しい痛みがあったが、時間の経過とともにそれも徐々に和らぎ、リハビリもスケジュール通り、順調にこなすことができた。入院中は、むしろ家族のほうが精神的に参っていた。

「私ががんだと知って、いちばんショックを受けたのは夫と弟でした。夫は家に帰って寝ようとしても私が死んじゃう夢を見るので眠れないって言うんですよ。私が元気な姿を見ると眠れるらしく、入院中、よく病院のベッドの横で大きないびきをかきながら寝ていました。弟は私ががんになったと聞いて、ショックで入院したんですよ。もともと心配性なタイプなんで、死ぬんじゃないかと案じて具合が悪くなったんです。そんな状態でしたから、手術当日も母には、私に付き添う必要はないから弟の面倒をみてあげてと言ったくらいです(笑)」

回復は順調で、後遺症も出なかったため松田さんは術後3週間ほどで退院することができた。

しかし、たいへんだったのは退院後からだった。うつ病という姿の見えない大敵に取りつかれ、塗炭の苦しみを味わうことになるのである。

「入院中は、夫や弟が精神的に参っていましたから、逆に私のほうがしっかりしなくちゃという思いが強かったし、娘のことも気にかかっていたので最短で退院するぞと自分に言い聞かせていました。その反動で、退院後にカクーンと来たんですよ。知らず知らずのうちに気を張り過ぎて、泣きたいときにも泣かずに歯を食いしばってきたツケが出たんです」

不安から、夫に対する不満が大きくなった

だるい、食欲がない、何もやる気が起きない。夜に眠れないことが多くなり、昼は人を避けるようになった。病院に行けば行ったで、思い出すのは入院中のつらいことばかり。家でぐったり横になっているときには、本当にがんがよくなっているのか不安になって涙がとまらなくなることもあった。夫に対する不満も、大きくなった。

「退院して家に戻ったのはいいけれど、手術の傷口が完全に閉じていないのにまだ小さい娘の面倒をみなくちゃいけない。でも、体がだるくて何もする気にならない。だから夫に手伝って欲しいんだけど、まっすぐ家に帰ってきてくれない。それにイラついて夫との仲もしっくりいかなくなり、すれ違いが大きくなっていきました。精神的にも肉体的にもすごくしんどくなっていたんだけど、夫には話しませんでした。自分で何とかしなくてはダメだと思い、1人で抱えこんでしまったんです。泣きたいんだけど、がんの不安を話せる人もいなかったのでホント、1人で落ち込んでいました」

うつ病になる人は根が頑張り屋のタイプが多いという。松田さんはその典型で、高校時代に早くもアメリカに1年間留学して英語をマスターしてしまう。その後の関西外語大学スペイン語学科に学んだ大学時代では、アナウンスの訓練を受けてバイリンガル司会者として活躍。さらに、シンガーとしてレベルアップすることを考えて、ニューヨークに行ってボイストレーニングを受けるが、その間には週末にブロードウェーのマリオットホテルで歌うという経験もする。

このように自分の人生を自分自身の頑張りと才能で切り開いてきた人にとって、何もできないこと、何もやりたくないことは、実につらいことである。


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