私の胃がんから20年、今の2人がここにいる 大助・花子の愛称で親しまれる夫婦漫才コンビ・宮川花子さん

取材・文●「がんサポート」編集部:菊池亜希子
撮影●霜越春樹
発行:2009年4月
更新:2019年7月

  
宮川花子さん

みやがわ はなこ
1955年大阪府生まれ。76年に結婚、79年に夫と共に漫才コンビ「宮川大助・花子」を結成。上方漫才大賞をはじめ、多くの賞を受賞する。5月2~4日、よしもとプリンスシアターにて、コンビ結成30周年記念イベントを行う。

夫婦漫才コンビ「宮川大助・花子」。今年、彼らはコンビ結成30周年を迎えた。花子さんが胃がんに襲われて20年、夫婦に何が起こったか――

妻のがんを知った夫の一言

花子さんが「胃がん」を宣告されたのは、1988年10月末のことだった。正確にいうと宣告されてはいない。花子さん本人は知らされなかったからだ。時は20年前。がんに対する考え方も捉え方も、今とは違う時代だった。

「結局、がんだとは誰も私に言いませんでした。退院後も、再発が心配される5年間も、その後も。だから、私もそこに乗っかってましたけど、今だから言います。気付かんわけないです。あれだけ検査して、手術して、苦しんで。最初は言われた通りずっとポリープやと思ってたけど、いつとはなしに気付きました。でもね、周りがあんなに必死で内緒にしてくれてるのに、そこを問い詰めてどないすんの。あんなに守ってくれてるんですよ。気付いたけど、がん? そやから何? でしたね」

1976年に結婚、79年に夫婦漫才コンビ「宮川大助・花子」を結成した。当時は、「やすきよ」を筆頭に、漫才ブーム華やかかりし頃。大助さんがネタを書き夫婦で舞台に立つ。絶妙な呼吸とタイミングが茶の間を沸かせた。しかしその裏には、想像を絶する特訓があったのだ。

「とにかくものすごい稽古でした。でも、そんなん当たり前ですよね。何かをしようとするときは、みんなそうでしょ。周りも皆、点滴打ったり、病院に運ばれたりしながらやってました。体はもちろん、気持ちも休む暇なんてなかったです。私ら、体に針を何本入れたら売れるんやろ……なんて言い合って笑ってましたもん。結局、私、千本入れましたけどね」

花子さんががんに罹っていると医師から告げられた瞬間、大助さんは「しまった!」と叫んだという。自身の夢を実現するために花子さんを巻き込み、漫才の特訓を重ね、体に無理を強いてしまったのではないかと自らを責め、嘆いた。実は、がんになる前年、87年にも1度、花子さんは肝炎で1カ月間入院している。それも含めての叫びだったのだろう。

ラジオ局に送ったファックス

胃がんは、偶然見つかった。そもそもは大助さんの体調が思わしくないことを心配した当時のマネジャーが、半ば強引に2人を連れて行った検診だった。そこで見つかった花子さんのピンポン玉大の腫瘍。本人にはポリープと告げられたその腫瘍摘出手術は、猛スピードで検診から1カ月後には行われた。

「ポリープなんて年が明けてから手術すればいいやん、と言っても、誰もが『早くとって正月はハワイに行きましょう』の一点張り。そのうち乗せられて、そやなあ、ハワイ行きたいなあ、と」

もちろん、手術を急いだのは別の理由だ。とはいえ、年末年始はお笑い番組の掻き入れどき。正月番組の収録を数週間にまとめて一気に終わらせ、11月21日に入院。1週間後の28日には手術となった。

「この1週間がきつかったです。どの薬が体に合うかを調べるため、いろんな薬を注射され、その後、水を山ほど飲まされて、その薬が何分後に出てくるか測るんです。それを何度も何度も。モルモット状態ですよ。ただのポリープやのに、痛くも痒くもないのに、もういい! 帰る! と叫んでました。内視鏡も当時は今のと違いますから、痛いのなんの。それからCTするとき造影剤を注射するでしょ、あれで呼吸が止まってしまって死にそうになりました。ブザーを押して助かりましたが、ものすごい怖かったです」

そして手術当日を迎えた。その日は毎週2人で出演しているラジオの生番組の日。大助さんは1人で出演するためラジオ局にいた。その大助さんに、花子さんはファックスを送っている。

~いつにも増して陽射しが強い今日。私は自分の身体にメスを入れようとしている。(中略)目が覚めたら貴方にそばに居て欲しい。小さな私の最後のお願いです~
(『愛をみつけた』より抜粋)

「手術前は誰でもナイーブになりますって。今やったら『苦しいんじゃ、アホ』とか書くけどね(笑)。とにかく手術前の検査の日々がつらくてしんどくて、弱気になってたとは思います。辞世の句を書く気持ちが、あのときはよくわかりました」

そのファックスを、ラジオの生番組直前に、大助さんはどんな気持ちで受け取ったのだろう。放映本番では、花子さんがまさにこれから手術を受けること、そして放送直前にファックスが届いたことをリスナーに告げ、「頑張って手術台にあがると書いてあります。さあそれでは始めましょう」と続けた。花子さんはその放送を病室で聞いていた。そして、「お待たせしました。こちらも始めましょう!」と声をかけ、元気に手術室に向かった。

母は顔を洗いながら泣いた

激痛は、手術後、全身麻酔から覚めて集中治療室にいるとき、突然やってきた。「切腹したような痛みだった」と花子さんは振り返る。1分1秒でもつらい激痛が、48時間続き、ようやく落ち着き一般病棟に移ったのは術後4日目のことだった。

「髪を洗いたいときとか、何か頼みたいときにナースコールするでしょ。そしたら、看護師さんたちが『松下さん(花子さんの本名)? 嫌です』と言うんやて。集中治療室にいた数日間、巡回で来られる看護師さんたちに私、あまりの痛さにギャーギャー叫んで、すごい嫌がられてたらしいんですよ。自分では覚えてないんやけど」

本人には告げられなかった“がん”。花子さんが術後の痛みと闘っているとき、花子さんの母や大助さんが心配していたのは、術後の病理検査の結果だった。それは転移の可能性の有無であり、つまり命の期限の宣告を意味する。どれほど長い1週間だっただろう。1週間後、「99パーセント、転移の可能性なし」との医師の報告を聞いたとき、母は号泣した。花子さんに気づかれぬよう、洗面所で顔を洗いながら。

胃がんの病期は、大きさや形より、その深さ(深達度)と転移の有無で決まる。胃壁は内側から、粘膜、粘膜下層、固有筋層、漿膜下層、漿膜という5つの層からできており、がんはもっとも内側の粘膜にできて、進行すると粘膜を突き破って筋肉に達し、さらに食い込んで漿膜まで破ってしまうと大腸や膵臓など多臓器に広がってゆく。つまり厚さ5ミリの胃壁のどこまでがんが達しているかが重要なのだ。花子さんの場合、腫瘍の大きさはピンポン玉サイズあったものの、病理検査の結果が「99パーセント転移なし」。つまり、深達度が粘膜内に留まっている早期がんであったと推察される。

病理検査結果が出る直前、ふいに大助さんが「なあ、また手術することになったらどうする?」と花子さんに聞いたそうだ。花子さんは「また同じ思いするなんて、もう私、死ぬで」と答えた。病理検査の結果次第では、再手術の可能性もあったわけで、それはつまり転移を意味する。大助さんにしたら、心配のあまり、つい出てしまった言葉なのだろう。しかし、それを傍らで聞いていた花子さんの母は激怒した。「なんてこと言うの!」と。皆がそれぞれの思いで、花子さんを心配していた。

胃がんの再発期間は一般的に5年間と言われている。それから5年、花子さんと家族は、再発の不安と隣り合わせの日々を過ごした。花子さんは、あくまでも自身ががんとは知らないことになっていた。けれど本当は気付いていた。知らないほうがいいだろうから言わない。わかっていたけど、言わないでいてくれる思いがわかるから問わない。互いを思いやるがゆえの心が、そこにはあった。定期検査を欠かすことなく5年が過ぎたとき、それぞれが、それぞれの方法で安堵し、静かに喜んだ。

「1人で行っといで」

写真:2008年7月、家族3人、ゴールドコーストにて

2008年7月、家族3人、ゴールドコーストにて。大助さんの脳内出血から1年5カ月を経た頃

花子さんの胃がんから約20年を経た2007年2月5日、結婚30周年を迎えた直後に、大助さんが脳内出血で倒れた。大阪でバラエティ番組のための稽古をし、ちょっと休憩しながら水を飲んでいたときのことだった。

「大助くんいうたら、倒れる2時間前に、マネジャーに『花子がしんどそうやから、ちょっと休ませたってくれ』と言うてるんですよ。なんであんなこと急に言うたんかなあ。数日後、その日に収録した放映をみたら、彼、ボロボロ。『あんたのほうがずっとしんどそうやで』と1人でテレビに突っ込んでました」

運び込まれた病院で「脳内出血で今夜がヤマです」と医師から告げられて初めて、花子さんはことの重大さを認識したという。その時点では、よくて半身不随、出血を止められなかったら明日はわからない、との見解だった。

翌日、幸いにも意識が戻り、目覚めた大助さんが集中治療室で花子さんに発した言葉は

「(仕事に)1人で行っといで」

だった。

「びっくりしましたよ。目を覚ましたことを喜んでいたら、『1人で行っといで』ですから。このとき、大助くん本人は倒れてから10日ぐらい経ってたように思ってたみたい。実際は翌日だったんですけど」

このまま看病を続けたら、今度は花子が倒れる――大助さんはそう思ったのだ。昏睡状態を脱してすぐ放った言葉は、花子さんを看病から解放させるためのものだっだ。その言葉を受けとった花子さんは、大助さんが5月24日に復帰するまでの4カ月弱、1人で舞台に立ち続けた。

「1人で行けた自分に驚きました。実は、あのときが仕事を辞められるいちばんのチャンスだったんですけどね」


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