がんは、私を成長させてくれる賢者なんだと思っています 小児時代に卵巣がんで入院生活を送り、「音楽」という表現方法に出逢った天使の歌声、シンガーソングライターのより子さん

取材・文●吉田健城
撮影●向井 渉
発行:2008年12月
更新:2019年12月

  
より子さん

よりこ
現在24歳のより子は、2歳から6歳までの間、小児がんを患い、多くの時間を病院で過ごした。入院生活の中で音楽の才能に目覚め、16歳でシンガーソングライターとしてデビューを果たす。「ほんとはね。」という楽曲がドラマのテーマソングとして起用されて話題を呼び、8万枚のセールスを記録する。2007年にはテレビ東京系音楽ドキュメンタリー番組「音遊人(みゅーじん)」により子の生き様が取り上げられ、反響を呼ぶ。ピアノの弾き語りによるライブも評判が高く、「生きる」というテーマで歌うより子の歌は聴く人の心を打ち続けている

シンガーソングライターのより子さんは2歳のときに卵巣がんの手術を受け、3年間の入院生活を送っている。さらに、一昨年は新たに卵巣腫瘍が発覚。療養生活を経て、一昨年の秋から再スタートを切った。「音楽は小さい頃からずっと、私のそばにいた」と言う彼女だが、卵巣がん、卵巣腫瘍という2度の大きな病気が、彼女にどのような影響を及ぼし彼女の音楽という世界に、どのような役割を果たしたのだろうか?

2歳のときに、手術で右の卵巣を摘出

より子さんの卵巣にがんが見つかったのは2歳のときだった。

卵巣がんと聞くと40代から50代に多いがんと思われがちだが、そうではない。若年性顆粒膜細胞腫や胚細胞腫瘍など、小児にできるタイプもいくつかあるのだ。どれも初期症状は大人と変わりがなく、腹水が溜まってお腹が張ったり、腹痛を起こしたりすることによって見つかるケースが多い。

「私がお腹が痛いと言って激しく泣くので、母がお腹を見たら、すごく膨らんで妊娠したみたいになっていたそうです。すぐに近くのクリニックに連れて行くと、お医者さんに『これはウチでは手に負えない』と言われたので、近くにある大きな病院の夜間救急外来に行ったんです」

そこは日本赤十字社系の総合病院で、がんや感染症の治療で高い評価を受けているところだった。しかも、その日に救急外来にいたのが、小児科の部長をしている経験豊富な医師だった。

その医師はすぐに何らかの原因で腹水が溜まって苦しんでいることを察知した。腹水を抜く必要があることをお母さんに説明し、そのまま入院する必要があることを告げた。

各種検査が行われ、その結果、より子さんの卵巣に腫瘍ができていることが判明した。

卵巣がんは、手術前に細胞を採取して行う病理診断ができないケースも多く、手術の際に行う迅速病理診断で悪性か否かを判断することになる。手術時のより子さんの病理診断の結果は悪性であったため、病巣のある右の卵巣をすべて切除した。

3年間続いた抗がん剤の治療

写真:より子さん
写真:闘病中にサンタからクリスマスプレゼントをもらって喜ぶ4歳のより子さん

闘病中にサンタからクリスマスプレゼントをもらって喜ぶ4歳のより子さん

卵巣がんは再発リスクは高いが、抗がん剤が比較的よく効くがんである。そのため、術後に化学療法が行われることが多い。より子さんも手術のあと、抗がん剤投与が始まった。

「先生は両親に『2歳という年齢もあるので、急激に強いクスリを投与するのではなく、体にダメージの少ないクスリでじっくりやりましょう』と言っていたようですが、いろいろ副作用が出ました。吐き気がすごくて食事は全部戻してしまうし、髪の毛も全部抜けちゃって。あと、ひどかったのは口内炎と耳たぶのただれでした。
よく耐えられた? そう思うのは大人の感覚なんですよ。つらいとか、苦しいということを母に言ったことは、まったくなかったようです。2歳のときから3年間ずっと抗がん剤を投与されていたので、それが当たり前になっていたんです。
母に聞くと、入院中にいちばん私が泣き叫んだのは、目が覚めて、母がそばにいないとわかったときだったそうです。入院中は母が病院に泊まり込んで、ずっと付きっきりで見てくれていたんですが、トイレに行ったり、売店へ買い物に行っているときもありますから、たまたまいないこともある。私、母に甘えきっていましたから、一瞬でも母がいないことが耐えられなかったんですね」

抗がん剤を使った治療は3年で終了。それ以降は半年に1回のペースで検診を受けながら様子を見ることになった。主治医からそのことを告げられたとき、お母さんは感涙を禁じえなかったようだが、当時5歳だったより子さんには、まだ自分が重病を患っていたという認識などない。お母さんが主治医に、何度も頭を下げるのをキョトンとした顔で眺めているだけだった。

両親と祖父母が同居する3世代家族は、彼女の音楽的才能を引き出すうえで重要な役割を果たしている。彼女が「音楽」を好きな女の子になったのは、歌が上手だったおばあちゃんがお見舞いに来るたびに、何曲も子供が好きそうな童謡や唱歌を歌ってくれたからであり、ピアノの前にいると飽きない子供になったのは、3歳のときにおじいちゃんが買ってくれたオモチャのピアノを指でつつきながら、音を出す楽しさを知ったのが出発点になっている。その後はお母さんが成長に合わせて電子ピアノやアップライト・ピアノを買い与えてくれた。

「音楽で何かを伝えるために生き残った」という思い

写真:自宅でピアノを弾く7歳のより子さん

自宅でピアノを弾く7歳のより子さん。独学でピアノを学んだという

「最初の表現方法は絵を描くことでした。入院中は音楽をずっと手元に置いておくことができなかったので」

しかし、より子さんの中で、表現を具現化するものが絵から「音楽」に決まった瞬間がある。

「小学校に上がって、RPG(ロールプレイングゲーム)にはまったんです。当時、そのRPGの音楽を作るソフトが販売されていて、自分で音楽を作れる環境になりました。それが完成したときにとても感動して、将来は音楽を作る人になりたいと思いました」

「音に携わる人になりたい」と思った小学生のより子さんだが、がんの告知をお母さんから受けるのも、この小学生という時期だった。

「小学校5年生のときに、母がいい頃合だと思って教えてくれたんです。『より子は小さいとき、がんだったんだよ』って。両親やおじいちゃん、おばあちゃんから、『大変な病気をしたのに、よくここまで元気になった』という話をよく聞いていたので、自分は病気をしたんだ、という認識はあったんです。でも、何の病気だったのかを知りたい、ということはなかったんですよ。子供は昔のことなんか気にしませんから。でも学校に行って、友達に『ねえ、小さいとき、どこの病院にいた?』って聞いても、みんな『病院になんかいなかったよ。より子ちゃんはいたの?』って聞き返されて。これって結構シビアな話なんだということに気付きました。その頃、またドラマやワイドショーなんかで、『がんは死の病』というイメージができあがっていましたし、結構ショックでしたね。入院仲間だった子供たちも次々に死んでいってしまうし……」

自分も仲間と同じように、いつ死ぬかわからない。けれど、生きている。その事実を小学校5年生になっていたより子さんは、自分なりに消化し、1つの結論に行き着いた。

「小さい頃から、何で私は生き残ったのか、ということをずっと考えていました。やりたいことをトコトンやらせるために、音楽で何かを伝えるために、神様が生き残らせてくれたんだと思ったんです」

クラスメートにモー娘。がいた幸運

「当時、私は学校に行ったり行かなかったりで、行かない日は家でピアノを弾いたり、テレビゲームにかじりついたりしていました」

小学校に上がってすぐの頃から、学校を休みがちになった、と言うより子さんだが、なぜ、学校に行かなくなってしまったのだろう。

「学校に行くと、みんな横並びで同じことをするじゃないですか。自分もそうしなくてはいけないから、すごく疲れちゃうんですよ。でも病棟の子供たちって、白血病だったり、がんだったり、みんな体調がバラバラなんで、どんなに小さくても相手のことを察する能力を持ってる。意思もちゃんと持ってるから、2歳の子と小学生とが対等に遊べるんです。そうした環境にいたから、学校に行くと大きい違和感を感じてしまって……。ウチの親も学校に行けとか強制しなかったんですよ。でも、はじめからそういう方針だったわけではないです。私が何を言っても聞かないから、諦めたという感じだったけど、その一方で、この子は何かやりたいことがあって、それしか見えていないんだと。この子がやりたいことをもっと伸ばすには、私たちはどうしたらいいんだろうって常に考えてくれている家庭でした」

中学校に入ってからも、「学校に行くと疲れる」ということは変わらなかった。

「中学校もあまり行ってなかったけど、3年生のときの担任の先生が、すっごくいい先生で、私に向いた高校が出たから、受験してみたらどうか、って言うんで、ある都立高校を受けたんです。そこは生徒が時間割を自由に組める学校で、生徒も7割くらいが不登校や登校拒否の経験がある子なんで、私もいいかなっていう感じだったし、両親も家庭教師まで付けてバックアップしてくれたんですけど倍率が6倍もある狭き門なので落ちちゃったんですよ」

その後、より子さんは高校へ行かなかった中学時代の友人たちとサークルを作って、マンガを制作し、コミックマーケットでのデビューも果たしたが、そんな生活も長くは続かなかった。めったにない幸運から歌手としてデビューする道が開けたのだ。

「中3のときのクラスメートだった元モーニング娘。の福田明日香ちゃんが、私の歌をすごく気に入ってくれていて、モー娘。時代のマネージャーさんに『すごく歌がうまい子がいる』って、私のことを話してくれてたんですよ。マネージャーさんも、とても興味を引かれたみたいで『ぜひ、聴いてみたい』っていうことになり、スタジオに呼ばれて、ピアノの弾き語りで椎名林檎さんの『時が暴走する』を歌ったんです。そしたら、大変気に入ってくれて、マネージャーさんの事務所に所属することになり、デビュー曲を自分で作詞作曲することになったんです」

より子さんは、こうして憧れだったプロのミュージシャンへの道のりを歩き始めた。

とは言っても、それまでゲームミュージックしか作ったことがなかったので、最初の曲『ほんとはね。』ができるまでに1年近くの時間がかかったが、それ以降は、次々に楽曲を発表し、2002年3月にデビューアルバム『Aizenaha』が発売された。まだ10代という、シンガーソングライターとしては、かなり早いデビューであった。

さらに、この年の7月にはお母さんと共同執筆した自伝的小説『より子。天使の歌声―小児病棟の奇跡』(フジテレビ出版刊)が刊行され、この本をベースにした2時間ドラマが同年8月にフジテレビで放送された。ドラマでは松浦亜弥さんがより子さん役、舘ひろしさんと田中好子さんがより子さんのご両親に扮して熱演。19.1パーセントという高視聴率をマークした。

ドラマでは、主題歌に『ほんとはね。』が使われ、心に迫ってくる天使のような歌声は、多くの人の知るところとなる。こうした背景もあり、デビューアルバム『Aizenaha』は、インディーズ系レーベルから発売されたにもかかわらず、8万枚の売上を記録するヒット曲となった。

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