がんという試練に鍛えられたから、パリ・ダカにも挑戦できたのです! 子宮がん、さらには乳がんで両方の乳房まで失いながら、58歳で国際ラリー・ドライバーになった能城律子さん

取材・文●吉田健城
発行:2008年8月
更新:2019年12月

  
能城律子さん

のしろ りつこ
1935年東京生まれ。12歳のときに長野県(白馬)に疎開。17歳で東京に戻る。21歳のときスキー1級取得。23歳で貿易会社を設立。女性と子どもをテーマに35歳のときに世界1周65カ国を1人旅。1976年、38歳のときに世界ではじめて国際ホテル内にサービス業としてベビールームを開設。51歳で国際A級ライセンス取得

能城律子さんは世界最高齢の国際ラリー・ドライバーとして知られる。女性でありながら70歳を過ぎた今も世界の道無き荒野を疾走している姿を見ていると、並外れて強靭な肉体を持ってこの世に生まれたのだろうと想像してしまう。しかし実際はその逆。彼女は生まれついての虚弱児で、35歳のときには子宮がんを切除。さらに43歳のときには乳がんで両方の乳房を切除。その後遺症にトコトン苦しめられた。彼女はその試練をどう乗り越えて国際ラリー・ドライバーになったのだろう?

負債を返済し、世界を巡る旅へ

能城さんは今でいう女性起業家の走りのような存在で、23歳で友人と共同で貿易会社を起こし、買い付けや商談に世界中を駆け巡った。けれども商売は一生懸命やったからといって利益が出るものではない。多額の負債を背負ってしまった彼女は、借金をゼロにするため身を粉にして働き、33歳のときようやく債務のない体になることができた。自由の身になった彼女は会社の経営から手を引き、世界を巡る旅に出た。

それまで貿易の仕事で世界各地を旅してはいたが、ビジネス目的ではその土地にどっぷり浸かって、そこに生きる人たちの生活ぶりまで感じ取ることはできない。そこで人と自然のなかに可能な限り入っていく旅をしたくなったのだ。

「人」でも彼女は「女性」と「子供」に興味があった。

旅に出た彼女は、あるときはモロッコの古都マラケシュで庶民の家に1カ月泊まりこんだり、あるときは乾季が訪れたブラジルのマナウスに行って船をチャーターし、開発がはじまる以前の秘境アマゾンを心ゆくまで探検している。

このときは結局1年ほど世界各地を周って帰国しているが、まだまだ見たいものがある彼女はすぐに再度旅立ち、とめどなく沸きあがる知的好奇心を充たした。

ハワイで起きた不正出血

そんな充実した日々にピリオドを打ったのが不正出血だった。それが始まったとき彼女はハワイに滞在していたが、出血がひどいため予定を繰り上げて帰国し、ただちに旧知の婦人科医を訪ねた。

「子宮筋腫という診断でした。赤ちゃんの頭くらいの大きな筋腫ができているから、すぐに入院して手術で取らないとダメだと言われたんです。同時に卵巣も生殖機能を温存するため、4分の1だけ残して切除するというお話でした。お医者さんが私に子宮がんという本当の病名を言わなかったのは、まだ『がん=死の病』と受け取られる時代だったからです。子宮がんですから、手術では子宮だけじゃなく、卵巣や周りのリンパ組織までごっそり取ってしまいます。それによってさまざまな後遺症が出たんです」

大半の患者さんは、卵巣の機能を失うことによってホルモンのバランスが崩れ、更年期障害に似た症状が出る。そのうえ排尿障害、足がむくむリンパ浮腫にも悩まされることになる。そのため行動的になれず、家に引きこもりがちになる。しかし彼女は違った。持ち前の起業家精神を発揮して、誰もやったことのないビジネスを立ち上げ軌道に乗せているのだ。

国際ホテルにベビールームを開設

彼女が始めたのは一流ホテルにベビールームを作って有料で子供を預かるという、世界初の時代を先取りしたビジネスだった。

「ニューオータニの2代目社長に人の紹介でお訪ねして、ベビールームのことをご提案したら『すぐにやってください』と大乗り気で全面的にバックアップしてくださったんです。ただ、小さな子供の面倒を見る仕事ですから、常に注意深く観察していないといけないし、お子さんをお預かりする時間もまちまちです。ですから始めの頃はほとんど毎日泊り込んでいました」

ハードな毎日で疲れをとる時間もない。けれども、自分で選んだ道なんだから弱音は吐けないという気持ちで頑張ったようだ。

「そんな折、右の乳房にしこりができているのに気がついたんです。その時点では、まだ子宮がんのことは知らされていませんから、すぐに乳がんを疑ったわけではありませんが、一応、お医者さんに診てもらったんです。そしたら、とくに異常はないということでした。人間ドックにも半年に1回のペースで検査を受けていましたが、1度も引っかかりませんでした」

写真:ホテル内にベビールームを開設した当時の能城さん
ホテル内にベビールームを開設した当時の能城さん
写真:現在のベビールームの室内
現在のベビールームの室内

1度に左右の乳房を切除。生半可でなかった後遺症

結局、乳がんが見つかるのは、しこりに気がついてから3年が経過した1978年のことだった。しかもがんが見つかったのはしこりのある右の乳房ではなく、左乳房だった。乳頭から血膿が出ていたため、大学病院に行って検査を受けたところ乳がんであることが判明したのだ。

「がんが見つかったのは左の乳房だけでしたから、右は温存できると思っていたんです。ところが病理検査で右の乳房にもがんがあることがわかり、1度に両方切ってしまうことになったんです。それを知らされたのは手術の3日後でした。
手術のあと右手も動かないのでおかしいと思っていたんですが、病室に往診に見えた主治医の先生が『両方ともダメでした』とおっしゃったので、そうだったんだと思いました。
3年前に私が右の乳房で見つけたしこりはやはりがんだったんです。それが左の乳房にも転移したんですね。手術後の話では、がんはリンパ節にも転移して、放射線治療も受けることになりました」

手術では、乳房だけでなく腕に伸びるリンパ節や胸の筋肉も一緒に切り取られた。そのため後遺症は生半可なものではなかった。

まず胸の筋肉を切除した影響で極端に握力が落ち2、3キロのものが持てなくなってしまった。胸の筋肉がないので姿勢も前かがみになり猫背になった。

手術では皮膚も一緒に切り取るため、その部分には自分の皮膚を移植することになるが、能城さんの場合は、背中の皮膚を剥離させ、引き伸ばしたうえで移植する方式が採られた。

これによる後遺症は想像をはるかに超えるものだった。

「人間の皮膚には弾力性があり、その性質を利用して皮膚を目いっぱい伸ばして皮膚がなくなった部分まで引き伸ばしたんです。これはいってみれば生ゴムで自分の胸郭を締め付けているようなものですから、血管が締め付けられて血の巡りが悪くなったんです。そうなると指が痺れたり、脈がなくなったりするので、結局、手首に近い血管にメスを入れて、血の通りをよくする手術を受けました」

後遺症でいちばんつらいのは「痛み」だった。神経が張り巡らされている生身の体から、筋肉やリンパ組織を広範囲に切り取るのだから、痛みは筆舌に尽くしがたいレベルだったことは想像に難くない。

「最初に激痛が走ったのは背中の剥離した部分でした。縫合してもすぐにはくっつかず皮膚と筋肉の間に隙間ができるので、空気が神経を刺激して激痛が走ったんです。肩から腕にかけて激しい痛みが走ることもしょっちゅうでしたね。
痛み出すと、痛み止めを飲み、少し楽になるんですが、効果は5時間もすれば消えてしまいます。するとまた痛みがぶり返しますが、我慢するようにしていました。ひっきりなしに痛み止めを飲んでいると体に負担がかかると思ったからです」

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