さくらの花よ泣きなさい。ぼくも一緒に泣いてあげるから リンパ節転移のある下咽頭がんを乗り越えた作曲家・三木たかしさんの闘病700日

取材・文●吉田健城
発行:2008年7月
更新:2019年12月

  
三木たかしさん

みき たかし
昭和33年船村徹氏に師事。昭和34年ジャズベーシストである作曲家小野満氏に師事、歌、作・編曲を学ぶ。昭和35年「恋のとりこ」作詞、作・編曲、歌をソノシートで発表。昭和36年アレンジャーとして活動を開始。昭和42年「恋はハートで」(歌:泉アキ)で作曲家として活動を開始。代表作:「津軽海峡冬景色」「風の盆恋唄」「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」「思秋期」「夜桜お七」「アンパンマンのマーチ」劇団四季オリジナルミュージカル「夢から醒めた夢」をはじめ昭和3部作「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」

下咽頭がんは転移が起きてから見つかることが多い厄介ながんだ。作曲家の三木たかしさんの場合もすでにリンパ節に転移していた。医師から声帯ごと手術で切除するしかないと告げられた三木さんは……。

下咽頭がんと言われても実感がなかった

写真:テレサテンさんと日本レコード大賞作曲賞を受賞したとき
テレサテンさんと日本レコード大賞作曲賞を受賞したとき

写真:故阿久悠さん、石川さゆりさんと
故阿久悠さん、石川さゆりさんと。
歌謡碑ができたあがった際の記念式典にて

三木たかしさんは1967年に作曲家としてデビューして以来、数々のミリオンセラーを世に送り出してきたヒットメーカーだ。『津軽海峡冬景色』(石川さゆり)『時の流れに身を任せ』(テレサテン)などの不朽の名作は時代を超えて現在も幅広い層に歌い継がれている。

その三木さんが下咽頭がんを告知されたのは作曲家生活が40年目に入った2006年6月6日のことだった。下咽頭は構造上、見つけにくい場所にあるうえ、初期のうちはこれといった自覚症状が出ないケースが多いため、進行がんになってから見つかるケースが6割を超える。三木さんの場合も見つかったとき、すでにがんが頸部リンパ節に転移していた。

「その1カ月半くらい前の4月20日に首のリンパ腺が腫れているので、かかりつけのお医者さんに行って診てもらったんですが、なんともないと言われたので1カ月ほど放っておいたんです。それでもリンパ腺の腫れが引かないので耳鼻科の先生に診てもらったら、念のため組織をとって調べたほうがいいと言われて有名な大学病院を紹介されたんです。そこで検査を受けたところ、下咽頭にがんがあることがわかったんです。がんはかなり進んでいるので、早めに手術で頸部リンパ節から喉頭までそっくり切除する必要があるというお話でした」

声帯は喉頭にあるので、そうなれば当然声を失うことになる。メロディを口ずさみながら曲を作り続けてきた作曲家にとってこれは由々しき事態である。しかし、そういわれても、この時点では、まだリンパが腫れているというだけで自覚症状が現れていなかったため、三木さんは実感が沸かなかった。

「ドクターに『このまま何もしないでおけばどうなりますか?』と訊いたんです。そしたら『半年ぐらいで死にますよ』って言われました。手術に関しても、声帯を残すという選択もあるけど、ここまで進行していると勧められないと、はっきり言われました」

歌声は失っても人と話す声は失いたくない

声だけは失いたくないという気持ちが強かった三木さんは、友人の伝で紹介された機能温存手術をライフワークにしている名医を訪ねてみることにした。国立がん研究センター東病院の名誉院長、海老原敏さんである。

海老原さんは国立がん研究センターおよび国立がん研究センター東病院に39年間在職した頭頸部がんのエキスパートで約8000件もの手術を手がけた実績がある。自らも大腸がんで患者になった経験があるため生存期間よりQOL(生活の質)を重視することで知られ、手術でがんを治しても、その代償に声や味覚を失うことになれば、それが果たして患者本人にためになるのかという考えだった。

がんセンター東病院の院長を退任後、海老原さんは都心に検査器具は一切置かないがん相談専門の診療所『蕩蕩』を開院運営設し、訪れるがん患者それぞれの立場にたって相談に乗っていた。

この名医との出会いが、がん患者としての三木さんの運命を大きく変えることになる。海老原さんはがんの治療と機能保存の両立が可能な手術法を開発している国立がん研究センター東病院で詳しい検査を受けることを勧めた。

さっそく千葉県柏市にある東病院で検査を受けたところ、がんはリンパ節にも転移している可能性が高いため、頸部のリンパ節を皮膚の裏の脂肪組織ごと切除することになるが、声帯は右側だけ切除して小腸を移植すれば、歌声は失っても人と話す声は失わずにすむという話だった。

「応対してくれた先生が『歌うことはできなくても、普通に話せるようになるし、ハミングぐらいならできるようになるでしょう』と言ってくださったので、がんセンター東病院で手術を受けることに決めたんです。過去に手術された方の例でも、失敗はないという点も、心強かったですね」

手術前に自分の歌声を残す

写真:平成17年度秋、紫綬褒章を受章
平成17年度秋、紫綬褒章を受章。
三木さん(左)と当時の文部科学大臣の小坂憲次さん

写真:故阿久悠さん、石川さゆりさんと
病気になる前、作曲に夢中の三木さん

治療スケジュールは6月26日入院、7月3日手術ということに決まった。それまでの限られた時間を使って三木さんがやったこと、それは、自分の歌声をメモリアルとして残しておくことだった。

「手術でがんの広がりが予想以上に大きければ声帯を切る可能性もあると言われていましたし、予定通り部分切除で片方の声帯を残せたとしても元のような声は出せなくなるので、いちばん思い入れのある曲を録音しておくことにしたんです。歌ったのは『さくらの花よ泣きなさい』です。この曲は前の年に紫綬褒章を受章した際、一緒に受賞した荒木とよひささんと作った曲で、詞が素晴らしくて、電話で荒木さんに詞を読み上げてもらったとき、震えるぐらい感動して一気に書き上げたんです」

この『さくらの花よ泣きなさい』という曲は、当時はまだ未発表だったが、今年3月に愛弟子の保科有里さんの歌でCD化されている。その中にはこのとき三木さんが録音したバージョンも収められているので聴くことができる。

声が出にくくなっていた中で、三木さんは声を絞り出すようにして、1つひとつのことばを慈しむように歌っている。とくに心惹かれるのは曲の後半に入って「さくらの花よ泣きなさい。そんなに誰かが恋しいならば。さくらの花よ泣きなさい。隣りでボクも泣いてあげるから」と感情をこめて歌い上げる部分だ。繰りかえし聴いていると、「声」にまだ強い未練がある自分を、もう1人の自分が慰めているように聴こえてくる。

咽頭の再建に前腕部の皮膚を移植

写真:手術前に愛犬と散歩の三木さん
手術前に愛犬と散歩の三木さん

このような形で声のメモリアルを作ったあと、三木さんは国立がん研究センター東病院に入院し手術を受けることになった。手術は7月3日の午前9時に始まり13時間を要した。

それほどの時間を要したのは、(1)下咽頭・喉頭の部分切除、(2)前腕部の皮膚を欠損部に移植する再建手術、(3)リンパ節・リンパ管をそれらを含む脂肪結合組織ごと切除する手術(頸部郭清術)が1度に行われたからだ。

迅速病理診断でリンパ節転移は7つ。頸部郭清では神経ごと脂肪組織を切除したため、前腕部の皮膚を切り取る際に、腕の神経も1本切り取って頸部に移植されている。

手術の内容はほぼ事前に説明されたとおりだったが、1つだけ変更があった。部分切除した咽頭の再建には当初小腸を移植すると聞かされていたが、手術中に医師の判断で、前腕部の皮膚を使うことになった。そのためそれに対する治療が必要になり、三木さんの左腕は頑丈なギブスでしばらく固定されることになった。


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