大腸がんを克服し見事に評論家生活に復帰した豊田泰光さんの闘病秘話
まさかの再手術。あのときは、生きて還れるような気がしなかった

取材・文:吉田健城
発行:2007年9月
更新:2013年8月

  

豊田泰光さん

豊田 泰光 とよだ やすみつ
昭和10年茨城県生まれ。
昭和27年水戸商遊撃手として甲子園出場。
昭和28年西鉄ライオンズ入団。新人王。
昭和31年リーグ優勝・日本1、首位打者、シリーズMVP。西鉄黄金時代の主力選手の1人。
昭和38年国鉄スワローズ(現ヤクルト)に移籍。
昭和47年現役引退。平均打率321厘。
近鉄コーチを経て評論活動へ。フジテレビ、文化放送、スポーツニッポンなどで野球解説。
2006年野球殿堂入り


人工肛門は回避

写真:チャンスに強かった2番打者の豊田選手
チャンスに強かった2番打者の豊田選手(右)

豊田泰光さんのことは改めて紹介するまでもあるまい。現役時代は黄金時代の西鉄ライオンズで強打のショートとして鳴らし、首位打者、新人王など数々のタイトルに輝く。産経アトムズを最後に現役を退いたあとは野球評論家に転進、核心をズバリ突く明快な解説と、正論を貫く辛口コラムで「球界のご意見番」として重きをなし、現在に至っている。

その豊田さんの体に異変が起きたのは2001年2月。プロ野球のキャンプ巡りで沖縄に滞在していたときのことだった。

「沖縄に滞在中、トイレで便に鮮血が付いているのに気が付いたんですよ。かなり血が付いていたんで、これはがんではないかと直感しました。大腸がんというところまでは思い浮かばなかったけど、ひと目で生易しい病気じゃないことがわかりましたから」

キャンプの取材を終えて帰京したあと豊田さんは、早速、会員になっている都心の病院に行って検査を受けた。その結果、直腸に丸い形をしたがんの病巣があることがわかり、初期の大腸がんであることが判明した。 直腸にがんがあるとわかったとき、豊田さんは「もしかしたら、人工肛門になるのでは」という不安に駆られたという。これは渡哲也さんのことが頭にあったからだが、それは杞憂だった。

院長の紹介で訪ねたがん専門の大病院で詳しい検査を受けたところ、がんは初期の段階で、部位的にもギリギリ摘出手術が可能で、肛門を温存できることが確認されたのだ。

体の異変を見逃さない目

写真:西鉄ライオンズ優勝の瞬間
西鉄ライオンズ優勝の瞬間

初期の段階でがんを見つけることができたのは、豊田さんが現役時代から自分の体に人一倍気を配り、体の異変を見逃さない鋭い目を備えていたからだ。これは過酷なスケジュールで戦うことを強いられた西鉄ライオンズで身についた能力だった。

「自分の体に鈍感だとシーズンを乗り切れない時代でしたから、体調には気を使ったし、食べるものにも絶えず気を配っていました。
ケガの治療もある程度できたので、夜遊びで淋病を貰った若いやつが、僕のところに、どこかで手に入れたペニシリンと注射器をもって、打ってくださいと頼みに来たことがあったくらいです(笑)」

このとき身につけた体の異変を察知する能力は、大腸がんを早い段階で見つける決め手になった。手術の不手際で出血が続いていた際も、それをいち早く察知し自分自身のピンチを救っている。

生きて還れないんじゃないか

写真:西鉄ライオンズ黄金期を築いた野武士集団
西鉄ライオンズ黄金期を築いた野武士集団

「4月に入ってすぐ入院し、手術を受けたのは4月9日でした。その際に25センチ腸を切っています。大きな手術を受けるのは初めてでしたが不安に襲われるようなことはなかったです。主治医は大腸がんの分野では名の知れた方でしたし、その先生から命に関わるようなことはないと言われていましたからね。
問題はそのあと。手術の2日後に腸と腸を縫合した箇所から出血していることがわかって再手術になってしまったんです。しかも、出血に気が付いたのはお医者さんでも、看護師さんでもなく、僕自身なんですよ(笑)。患者は手術のあとオムツのようなものをされるんだけど、それに鮮血が付着していたから、これはただ事ではないと思って主治医に尋ねたんです。『先生、凄く鮮血が出ているんだけど、大丈夫なんでしょうか』って。
そしたらその先生が『手術が終わる前に毛細血管を焼いて念入りに止血するんだけど、それが不十分だった可能性がありますね』と歯切れの悪い言い方をするんですよ。どうするんだろうと思っていたら、緊急で再手術をすることが決まり、気が付いたら手術室にいくストレッチャーに乗せられていました。
予期せぬ事態が起きたことは明らかですから、このときは生きて還れないんじゃないかと思いました。家内に『これが別れやろ』と言い残して手術室に入ったのを今でもよく覚えています」

再手術は首尾よくいった。しかし、豊田さんはそのダメージに苦しめられることになる。再手術からしばらくの間は体がだるく、ベッドにじっと体を横たえる状態が続いた。輸血なしで再手術を行ったため貧血状態になってしまったのだ。おかげでしばらく本はおろかテレビを見る気も起きなかったという。

なかなか塞がらない切開傷

写真:国鉄スワローズ時代
国鉄スワローズ時代の豊田選手

とはいえ、4月は例年ならプロ野球の公式戦がスタートしていつもなら多忙を極める時期だ。仕事のことが気にならなかったのだろうか。

「まったく気になりませんでしたね。体がフラフラで仕事なんてどうでもいいという感じでした。テレビを見る元気がないからナイター中継も全然見ませんでした。ただ活字媒体の連載だけは、放送媒体みたいにほかの解説者に穴を埋めてもらうわけにはいかないんで、日経新聞と週刊ベースボールで毎週やっている連載だけは担当者に来てもらって口述でやりました」

豊田さんを悩ませた再手術の後遺症はそれだけではなかった。2度も同じ箇所にメスを入れたため、ヘソのすぐ下から下腹部に伸びる切開傷がうまくくっつかず、絶えず体液が染み出す状態が続いたのだ。これだと頻繁に消毒しないといけないが、そのたびに消毒液が染みて激痛が走るため脂汗をかきながら耐えねばならなかった。

この後遺症は5月の頭に退院したあとも続き、たびたび化膿して豊田さんを悩ませることになる。

「退院したあとも会員になっている病院に通って傷口の手当てをしたけど、ひどいへこみができたまま、なかなか治らないの。そんな折、知りあいの医者がパイナップルから抽出した薬剤が効くと教えてくれたんで試してみたんです。そしたらすぐに効果が出て、傷口のへこみが無くなり完全にくっついた状態になった。がんとの戦いに一区切りついたという気分になったのはこのときです」


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