フォトグラファー谷沢淳が語る
米国と日本をまたにかけた慢性骨髄性白血病との戦いの軌跡
再び南カリフォルニアの大波に乗る日を夢見て

取材・文:吉田健城
発行:2007年7月
更新:2019年7月

  

谷沢淳さん

谷沢 淳 やざわ じゅん
栃木県小山市生まれ。麗澤大学卒業。
2001年渡米。写真・サーフィン映像編集に携わる。
2005年5月、慢性骨髄性白血病移行期の診断。6月末、日本帰国。
2006年6月、造血幹細胞移植。
自然写真と詩を合わせた作品がライフワーク。


太腿の内出血

サーフィン関連の映像編集を手がける傍ら、ネイチャー・カメラマンとして多忙な日々を送っていた谷沢淳さんが、慢性骨髄性白血病を告知されたのはアメリカに活動の拠点を移して4年目の2005年5月のことだった。

体に異変が起きたのはサンディエゴ北郊のビーチでサーフィンに興じていたときだった。サーフィンは激しい体の動きを伴うため、ケガの多いスポーツだ。捻挫、打撲だけでなく、瞬間的に筋肉に限度を超えた負荷をかけるため筋繊維が切れて内出血を起こすことも少なくない。しかし、たとえ内出血を起こしても健康体なら血はひとりでに止まる。

しかし、その日はそうならなかった。大腿部裏側の筋肉に生じた内出血は夜、家に帰ったあとも止まらず、太ももは普段の倍くらいに脹れ上がってしまった。それに伴う痛みも増すばかりで2昼夜、まったく眠れない状態が続いたため、谷沢さんは友人の助けを借りて病院で診察を受けた。

そのときは医師から打ち身だと思うので様子を見ようということで、鎮痛剤を処方されただけで返されたが、痛みは治まらず、翌日の朝方に耐えられない痛さになったため、心配した友人たちに担ぎ込まれる形で再度病院で診察を受けることになった。

知らなかったリューケミア

写真:カリフォルニア、ラホーヤの海岸
カリフォルニア、ラホーヤの海岸 (谷沢淳作)

応対した医師は内出血のひどさに驚き、通常は使わないモルヒネを処方して痛みを和らげたあと、すぐ精密検査を受けるよう指示した。

その結果、白血球値が異常に高いことが判明した。

「即入院です。病院はその頃住んでいたエンシニータスにあるスクリップス・メモリアル・ホスピタルの分院です。スクリップス・メモリアルの本院は隣町のラホーヤにあるんですが、がんの治療と研究で有名なところです。ですから対応も迅速で、入院して程なく結果が出て、ドクターから慢性骨髄性白血病の移行期だと告げられました。
ショックですか? 実は、“leukemia”が白血病を意味する単語だとは知らなかったんです。4年アメリカで暮らしていても、健康そのものの生活を送っていましたから。病気や健康に関する記事なんてほとんど読んだことがなかったんです。
白血病だと知ったのは、入院患者の食事の世話をするヘルパーの中に日本語がわかる東洋系のおばさんがいて、ぼくに『白血病は大変だけど頑張ってください』と話し掛けてきたんで、わかったんです。そのときは本当にショックでした。白血病は『死の病』だと思っていましたから。とくに1人きりになる夜は太ももの痛みで眠れないこともあり、不安で涙が止まらなかったですね。このまま死ぬんじゃないかと何度も思いました」

驚くほど高い米国の医療費

写真:フィジーの孤島で

自然の撮影旅行に来たフィジーの孤島で、子供たちと記念写真

そのような深刻な状態であるにもかかわらず、谷沢さんはスクリップス・メモリアル・ホスピタルでの入院を10日で切り上げ、それ以降は自宅に帰って近くにあるサンディエゴ・キャンサーセンターに通いながら、グリベック(*1)とハイドレア(*2)の併用による化学療法を受けることになった。

日本ではがん治療は入院してやるものというイメージがあるが、入院費が驚くほど高いアメリカでは、短期間入院して初期治療だけを行い、主治医に治療計画を立ててもらったうえで通院治療に切り替えるケースが多い。谷沢さんが通院治療に切り替えたのも、スクリップスに入院中に、主治医のバスドー医師と相談して決めた計画に沿ったものだ。

計画では、その通院治療を6週間ほど続けてあとは、日本に帰国して骨髄移植を前提とした治療に入ることになっていた。

*1一般名 メシル酸イマチニブ
*2一般名 ヒドロキシカルバミド

サーファーだった主治医

写真:父と

サンディエゴでの治療中、渡米した家族と海を見に行ったとき。父と。松葉杖こそないが、まだ左足が腫れていて、親の肩をかりている

写真:母と綾子さんと

同じく海を見に行ったときの、母(中央)と、やがて妻となる綾子さん

メインの治療を日本に帰ってから受けようと思ったのは、サーフィン関連の仕事ができなくなったこと、長い闘病になるため両親の支えが不可欠であることに加え、費用面での不安が大きかったからだ。

慢性骨髄性白血病は日本でも治療費がかさむことで知られるが、それでもアメリカの比ではない。谷沢さんがスクリップスに10日間入院して治療を受けた際の請求額は800万円を超す金額だったという。

「ですから初めからアメリカで闘病生活を送ろうという気は無くて、主治医のバスドー先生にも、それを前提に治療計画を作って欲しいと頼みました」

谷沢さんにとって幸いだったのは、この主治医が彼の顔を覚えていたことだ。

「主治医の回診の際、病室に来たお医者さんが『君に、会ったことがあるけど、覚えているかい』ってニコニコしながら言うんですよ。実は彼もサーファーでぼくたちがよく行くスワミーズというところに来ていたんですね。ぼくのことをよく覚えていたのは、混雑を避けて少し離れたところで大きな波に乗っていたんで、目立っていたんだと思います。
彼のほうは、休みの日に家族連れで来て、波の緩いところで楽しんでいる感じでしたが、サーフィン仲間であることに変わりはありません。共通項があれば人間、話も弾むし、心も通います。そのときは本当に嬉しかったですね。医学用語がよくわからない中でお医者さんと向き合わなければならないので、不安でいっぱいでしたから」

1座不一致を選択

バスドー医師が作ってくれた計画に沿って6週間2剤併用の化学療法を受けたあと、谷沢さんは、2005年6月27日にアメリカを離れて日本に帰国。栃木県小山市にある実家に生活の拠点を移して、自治医科大学病院に通いながら血液科の永井正医師のもとで引き続きグリベック治療を受けながらHLA型が完全に一致するドナー(提供者)が現れるのを待つことになった。

しかし、半年待ってもドナーは見つからなかった。

「実は完全に一致する方が2人いることがわかったんですが、同意を得られなかったんです。それを聞いたときは、現実の厳しさを痛感させられました。結局、先生と相談して、1座不一致での移植を受けることに決めました。完全一致の骨髄を海外のバンクから取り寄せることも検討したし、臍帯血移植も選択肢の中にあったんですが、それぞれに問題点があって、先生としてはあまりお勧めできないということでした。
1座不一致での移植に関してもGVHD(移植片対宿主反応病)が起こる可能性が高いことや、造血が再開されない生着不全や様々な感染症にかかるリスクが高いことなど、詳しい説明がありました。それでも、ぼくのような慢性骨髄性白血病の移行期の場合、年齢を考えれば5年間の生存率が50パーセントくらいあること、グリベックが効かなくなるまであと2、3年であることを考えれば、1座不一致での移植が最良の選択であることは明らかでした。正直言って怖かったけど、それを乗り越えないと根治できないわけですから、ここは腹をくくって前に進むしかないという気持ちでした」


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