がんとの戦いを劣勢から「ドロー」に持ちこみ大願を成就した元王者
「一瞬の夏」の元プロボクサー・カシアス内藤
カシアス 内藤 かしあす ないとう
1949年5月、神奈川県に生まれる。
日本人の母と進駐軍の黒人軍曹を父に持つ。
アマチュアボクシングを経て、68年プロデビュー。
1970年に日本チャンピオン、71年には東洋チャンピオンになるが初防衛戦に敗れ74年引退。78年にカムバックするが79年東洋タイトル戦に敗れ再び引退。
2004年に咽頭がんの診断を受け入院治療。
退院し05年2月1日、念願だったE&J カシアス・ボクシングジムを開設する。
沢木耕太郎著『一瞬の夏』は78年~79年の1年間を追ったノンフィクション
内藤にとって声を失うことは、長年の夢であった自分のボクシングジムを持つことを断念することを意味していた。しかも、そのとき内藤は夢を実現する一歩手前まで来ていた。そのうえ資金は友人たちが内藤に夢を叶えさせようと奔走して集めてくれたものだ。そうした人たちの心意気に応える意味でも、内藤には延命と引き替えに声を失うことなどできなかった。
ボクシングのトレーナーは、選手の練習にたえず目を配りながら、その場その場で手短に指示を与え続けないといけない。レベルの高い選手を教えるときはそれだけでなく、諭すときの声、叱咤するときの声、元気を出させるときの声などを状況に応じて使い分けながら、選手の闘志をかき立てたり、欠点を直したりしないといけない。内藤が師と仰いでいたエディ・タウンゼントは、そうした状況に応じた指示を的確に飛ばすことができるトレーナーだった。
内藤はそんな優れたトレーナーにめぐり会ったことを誇りに思い、自分のジムが完成した暁には、タウンゼントに教え込まれたことを若い練習生に教えてやるんだと意気込んでいた。
自分のジムを持って恩師に叩きこまれたことを若い世代に伝える――これは、内藤が引退する際、恩師タウンゼントに誓った違えることのできない約束だった。
内藤に残念だったのは、その夢をタウンゼントの存命中に果たせなかったことだ。
咽頭がんの告知
©内藤利朗写真集『カシアス』より
「昔騒がれたし、沢木さんが書いてくれたから、知名度はあるじゃないですか。だからスポンサーになってやるからお前のジムを開けといってくれる人はいたんだけど、その話には乗らなかった。その人の言いなりになるのは見えてるからね。そうこうするうちにエディさんが亡くなり、俺も年が50を超えた。何とかしなくてはと思いはじめたとき、まわりの人たちが資金集めに協力してくれることになり、2004年の夏ごろにはジムをスタートできる目途がついたんですよ。年賀状にもそのことを刷り込んで発送したんだけど、その直後ですよ、口に入れた食べものを飲みこむたびに痛みが走るようになったのは」
2003年12月、喉の痛みがひどくなった内藤は、近くの総合病院に行って検査を受けた。
結果は予想だにしないものだった。担当の医師から「悪い細胞があるかも知れないから、念のため大きな病院で精密検査を受けてください」と言われた内藤は、紹介状と検査結果の写しが入った封筒を渡された。
紹介状は神奈川県立がんセンターあてのものだった。
「がんかも知れないと思ったのは、そのときです。はじめは肺がんじゃないかと思ったの。10歳のときから50を過ぎるまで、ずっとショートホープを50、60本吸う生活を続けていましたから(笑)。肺ではなく喉のあたりにがんがあるようだと思ったのは県立がんセンターで検査を受けたときですね。紹介状を持って行った先が呼吸器科ではなく頭頸部外科だったし、検査も、のどのあたりを中心に調べていたから」
内藤が担当の医師から正式に病名を告知されたのは、検査入院してすぐの2004年2月1日のことだった。しかし、がんであることは県立がんセンターから「検査の結果が出ているので、奥さんか誰か、身内の方をつれて来て下さい」という連絡を受けた時点でわかっていた。がんを告知されるとなると深刻な話になる可能性が高いと思った内藤は、妻の三美子だけでなく『一瞬の夏』以来、ずっと身内同然の付き合いが続いている作家の沢木耕太郎とカメラマンの内藤利朗にも来てもらうことにした。その日はたまたま、恩師エディ・タウンゼントの命日にあたるため、前々から3人で集まって故人を偲ぶことになっていたのだ。
病命を告知したのは3人の担当医のなかで1番若いK医師だった。
がんとの共存、ドローを目指し化学療法を開始
©内藤利朗写真集『カシアス』より
「はじめに咽頭がんという病名を告知されたんだけど、予想されていたことなんで特にショックはなかったですね。一緒に行った沢木さんや女房は目に涙を浮かべていましたけどね。K先生の話では、がんは口の一番奥に位置する中咽頭という部分にあって、かなり進行しているとうことでした。それはいいんだけど、問題は治療法だった。根治を目指すなら声を失うことを覚悟で摘出手術を受けるのがベストだと言われたんですよ。即座に絶対「ノー」だと思いましたよ。筆談でボクシングのトレーナーがつとまるわけないですからね。そのことを、俺、ストレートにK先生に言ったの。自分にはボクシングジムを作ってタウンゼントという師匠から教わったことを今の若い世代に伝えていく使命がある。だから絶対、声を失うわけにはいかないんだって。
そしたらK先生はよく理解してくれて、『根治を目指すのではなく、がんをうんと小さくして暴れないようにしながら共存していくやりかたもある』って言ってくれたの。共存ということは、ボクシングで言えばドローですよ」
がんとの戦いをドローに持ちこむためK医師が治療法として内藤に示したのは早期咽頭がんで第1に選択されている放射線化学療法だった。この治療法は早期の患者から手術できないレベルになってしまった患者にまで、広く用いられている治療法だ。抗がん剤はブリプラチン(もしくはランダ一般名シスプラチン)と5-FU(一般名フルオロウラシル)の組み合わせが標準治療になっているが、最近ではシスプラチンか5-FUにパラプラチン(一般名カルボプラチン)、アクプラ(一般名ネダプラチン)などの抗がん剤を組み合わせる試みも行なわれるようになっている。
「先生が『最初に使った抗がん剤が効かなくても、最近は新種のよく効く薬があるから、心配することはないですと』と言って、やってみますかと言うんで、即それでお願いしますって頭を下げました。『最初にためした薬がだめでも、ほかにも効く薬がたくさんある』なんて自信がなければお医者さんは言わないもんですよ。だからこの先生を全面的に信じてやっていこうと思ったんですよ。でも、はじめのうちは、抗がん剤に対する期待みたいなものがあったんだけど、実際にやってみると苦しいのなんの。あの言いようのない不快感は聞きしにまさるもんだったね」
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