自らのレスラー生命を救った一瞬の決断
後腹膜腫瘍を克服したプロレスラー・西村修
西村 修 にしむら おさむ
1971年東京都生まれ。
新日本プロレス学校を経て、90年4月に新日プロ入門。
93年第4回ヤングライオン杯に準優勝後、同年8月に米国武者修行に出発。
95年に帰国し、藤波辰爾の自主興行『無我』にレギュラー出場した。
98年8月にはG1初出場を果たしたが、その後は後腹膜腫瘍のため欠場。
2000年6月日本武道館での藤波戦で復帰を果たした。その後もプロレス界で活躍する一方、小児がん撲滅などのチャリティ活動にも参加している。
がんには人にほとんど知られていない特殊ながんがたくさんある。こうしたがんは病名が特定されるまでに時間がかかることが多い。専門的な知識と治療経験を持つ医師が限られた数しかいないからだ。これは裏を返せば、そうした医師といかに早くめぐり合うかが生死を分けるということだ。それには患者自身が「考える患者」「行動する患者」にならなければいけない。そのモデルケースとも言えるのが後腹膜腫瘍を克服したプロレスラー西村修のケースだ。西村は、このきわめて特殊ながんから生還しただけでなく、自分で見つけた免疫力を最高に高めるライフスタイルを実践し、奇跡のカムバックを成し遂げている。
突然襲った40度を超す高熱
青森市での試合で、熱っぽい体のままリングに上がったところ、試合後急に熱が上がって市内の総合病院に担ぎ込まれた。
体温を測ったところ42度近くあった。もちろん、こんな高い熱はかつてなかったことだ。
「そのときは夏風邪だろうということで、点滴を打ってもらってからホテルでずっと横になっていたんだけど、病院でもらった座薬を言われた通りやっても、なかなか熱が下がらないので、会社(新日本プロレス)に話して、熱が下がるまで青森にいて、先の試合が組まれている北海道で合流させてもらうことにしたんです。熱が39度以下に下がるのに2、3日かったんですが、まあ、何とか風呂に入れるようになったんで、うんと熱くして入ったんですが、そのときです、下腹部に固いしこりが出来ているのに気がついたのは」
札幌で合流したあとも、足がふらつく状態だったため、西村は試合を休ませてもらい札幌市内の病院で診てもらった。しかし、しこりのことは言わなかったので、ここでも医師の診断は「風邪でしょう」だった。
結局札幌では最終日にリングに立っただけで、西村は東京に戻ることになるが、しこりは消える気配がなく、逆に少し大きくなっている感じすらあった。
その後、ヨーロッパでプロレス武者修行をしていた頃に知り合った、ドイツ人のガールフレンドが日本に遊びにきたので、西村はご機嫌で日本中を旅しながら青春を満喫したが、その間にも、しこりが気にならない日はなかった。
やがて彼女が帰り、現実の世界に引き戻された西村は、8月31日から始まる合同練習に備え、からだの手入れに余念がなかった。
そして、合同練習開始を翌日に控えた日曜日、友人と会食して帰宅したあと、入浴中にしこりがピンポン玉くらいの大きさになっているのに気付き、愕然とする。
運命の行き先変更
「その夜は、しこりが大きくなっているのがショックでよく眠れなかったんです。眠りについた後も、火山が爆発する夢を見て目が覚めるんですよ。それに熱っぽい感じもあったから、行きたくなかったけど、休むわけにはいかないと思って次の日の朝、車で大塚の家を出て、世田谷の新日本プロレスの道場に向かったんですよ。でも、ハンドル握っていても、こりゃ、普通じゃないな、と不安になって、途中で行き先を変えたんです」
西村は予定のルートを変更して、信濃町方向にハンドルを切った。
向かったのは慶応病院だった。紹介状も何もなかったが、行くしかないという確信のようなものがあった。
前の日、不安になった西村はいくつか心当たりに電話をかけ、しこりの正体を付きとめようとした。そのなかで、とくに、耳に残って離れないのがニューヨークにいるレフェリー・タイガー服部からもらったアドバイスだった。西村は服部が以前大きなしこりがからだに出来て、がんと診断されたことをどこかで聞いたことがあった。そこで、ニューヨークに電話を入れて、服部に事情を話したところ、間髪を入れず答えが返ってきた。
「絶対、ちゃんとしたところで、調べてもらわなくちゃだめだ」
それが、がんを想定して言っていることは、明白だった。
「受付で泌尿器科に行くよう言われたので、行って順番を待ったんですが、紹介状がないから3時間近く待たされました。診察室に入ったのはお昼近くになっていたと思います。応対してくれたのはメガネをかけたわりと若い先生でした。すぐに横になるように言われて触診が始まったんですが、すぐです、“がんの疑いがあります”と言われたのは。そのあと、肺への転移も考えられるから、血液検査と胸部レントゲンを撮るように言われたんです。お名前は忘れたんですが、あとあと考えれば、この方がすごい方なんですよ。一発で後腹膜腫瘍だと見破ったんですから。もちろん、はっきりは言いませんでしたが、肺への転移を真っ先に心配してるのは後腹膜腫瘍だと目星をつけてるからなんです。でも、そんなこと、こっちは知るわけもないんで、ほんと絶望的な気分になっていましたね。順番を待っているあいだ、涙が止まらなくて、彼女のこと、仕事のこと、家族のこと、頭にいろんなことがとりとめもなく浮かんで、みんな終わっちゃうんだという気持ちになっていました」
結果的に見れば、みんな終わっちゃうことにはならなかった。それは、西村が一瞬の判断で慶応病院に車を走らせたからだ。しかし、病院の選択を人任せにしていたら、みんな終わっていた可能性はある。
それはその後の展開を見ればよくわかる。
医者泣かせの見つけ難いがん
慶応病院に行ったあと、西村はさらに、3つの病院で診察を受けている。
最初に行ったのは、お母さんのつてで訪ねた、近くにある総合病院だった。
ここで、診察を受ける際、西村は慶応病院でがんの疑いがあると言われたことを話したのだが、診てくれた外科の医師は大きなしこりを、がんではなく「ぶつけたりして炎症を起こしているのではないか」と診断した。
次に行ったのは会社が紹介してくれた都心にある泌尿器科の個人病院だった。電話で聞いてみると「エコーの機械でやるので、がんかどうかは即答できる」という話だったので行ってみることにした。
診断の結果は「このしこりはがんではないです。炎症を起こしているので、薬を出しておきます」とビタミンCを大量に処方された。
3つ目は、知り合いから紹介された下町にある総合病院だった。ここの診断は「がんの可能性がありますね。メスをいれて生検をしないと何とも言えませんがね」というもので、がんの疑いがあることをはっきり言われた。
このように、後腹膜腫瘍は、がん治療に実績がある医療機関でさえ見過ごすことの多い極めて医者泣かせのがんだ。それを、紹介状もなしで、飛びこみで行って一発で特定されたのだから、西村のケースは例外中の例外と言ってよい。
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