元日本ライト級チャンピオンの戦いのゴングは「あと2カ月の命」と宣告されたときに鳴った
がんVSバトルホーク風間のエンドレスマッチ
バトルホーク 風間 バトルホーク かざま
1950年東京生まれ。
元日本ライト級チャンピオン。
アマチュアで活躍していた兄にボクシングの手ほどきを受け上野高校1年のとき国体出場。
のちに専修大に進みアマでの戦績は123勝9敗。
1974年ハワイでプロデビュー75年帰国。
79年日本ライト級王者。
80年WBA世界ジュニアライト級王者サムエル・セラノに挑戦したが敗退。
その後左目の網膜剥離がひどくなったこともあって引退した。引退後、一時レフリーを務めていたこともある。
がんの進行で酒が飲めなくなった
風間さんが国立がん研究センターで食道がんの4期と告知されたのは2002年4月のことだ。
予兆はかなり以前からあった。食事が喉を通りにくくなっていたのだ。それでも、はじめのうちは一時的な体の変調だろうと思っていた。ところが症状はひどくなるばかりで、そのうち大好きな酒も入らなくなり、吐いてしまうことが多くなった。
左党にとってこれはゆゆしき事態だ。これによって風間さんは、漠然とではあるが自分の体の中でがんが進行しているのではないかと感じるようになった。
しかし、まわりの人間が「がんの可能性があるから、病院に行って検査を受けたらどうか」と勧めても、重い腰を上げようとはしなかった。なぜなら、これまで事あるごとに家族や友人に「がんにかかっても、手術や抗がん剤で延命してまで生きようとは思わない」と言い続けてきたからだ。
風間さんは試合のとき、いつも死を覚悟して相手にぶつかっていった。緊張はしたけれど怖くはなかった。倒すか倒されるか、という原則に貫かれたボクシングの世界を生き抜いてきた風間さんから見れば、手術や大量の抗がん剤で延命することは、彼一流のダンディズムの対極にあるものだった。
「ハワイでボクシング修行をしたときに、私を指導してくれたタッド河村さんという人は、Kill him(殺せ!)、わかった? 殺すのよ! って、当たり前のように言う人でした。もうちょっとで倒せそうになると、Kazama、Kill him! Kill him!って激が飛んでくるんで、こっちも殺すつもりでパンチを繰り出していました。ボクサー時代、ぼくは、このハワイで叩きこまれた『Kill him!』精神を持ち続けながらやっていました。だから、人は死ぬときは死ぬもの――そんな考えが染み込んでいたんです。だから、抗がん剤を使って延命するとか、最新の医療技術を使って生きている時間を引き伸ばすといったようなことは、馬鹿げたことに見えるわけです。自分だけは、ああはなりたくないと思っていましたね」
余命2カ月なんて、そりゃないよ
これほど病院を嫌がっていた風間さんが、なぜか2002年の春になると態度を和らげ、病院に行ってもいいという口ぶりになった。理由は単純。がんの進行で食道が詰まり、大好きな酒を飲めなくなっていたからだ。
飲んでも飲まなくても、遠からず死ぬのなら、たっぷり飲んでから死にたい。それには、まず、酒を飲みこめる体になる必要があった。
風間さんは、がんのほうはもう手遅れだろうから、なるようにしかならないと達観していた。しかし、酒を飲みこめない不便さは、放射線を使ってもいいからなんとかして欲しいと思っていた。
それに加え、以前奥さんと相談して加入した「がん保険」の適用を受けられる時期が来ていたので、仮にがんを告知されて即入院となっても、金銭面でまわりに迷惑をかける心配もなかった。
その日、国立がん研究センターには奥さんと長男だけでなく、兄さんも同行することになった。身内が3人も同行するのは、重大なことが告知されるからだ。
がんセンターに行く人間が聞かされる重大なことなんて一つしかない。
がんの告知だ。
がんが、かなり進んでいて助かる見込みがないから、身内が3人も来ることになったのだろう、と風間さんは思った。それでも、この時点では死への恐怖感はまったくなかった。
がんセンターで風間さんは医師から「4期の食道がんです」と告知された。だいたい予想した線だった。
しかし、それに続いて出てきた言葉は予想だにしないものだった。「このまま進行すれば、あと2カ月の命です」
この言葉で、それまで風間さんを支えていたボクサー的な美学は、もろくも崩れ去った。
医師から手術が一番有効な方法と聞かされると、風間さんは間髪を入れず「お、お願いします。手術だけでなく、放射線でも抗がん剤でもなんでもやってください」と頭を下げた。
やはり人生の土壇場に追い詰められると人間、理性より本音が出るのだろう。
「あと2カ月といわれたときは、あまりの短さに、そりゃないよ、と思いました。あとはもう声も出ませんでした。ボクシングの試合だって日本タイトルのかかった試合だと3カ月も4カ月も前から準備に入るわけです。たった一つの試合のためにです。ところが人生の終わりまで、あと2カ月しかないと言われてしまった。ですから、もう頭がパニックを起こしてしまって真っ白……何も考えられない状態でした」
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