脳腫瘍がくれた2つのビッグな勲章 奇跡のカムバックを遂げたプロ野球投手・盛田幸妃

取材・文:吉田健城
発行:2004年3月
更新:2018年9月

  
盛田幸妃さん

もりた こうき
1969年北海道生まれ。函館有斗高校卒。88年横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)にドラフト1位入団。92年には佐々木主浩とのダブルストッパーで大活躍。最優秀防御率のタイトルを獲得する。98年近鉄バッファローズへ移籍。シーズン中に脳腫瘍が見つかり、12時間に及ぶ手術を受ける。99年10月、392日ぶりに1軍復帰。2001年34試合に登板し2勝をあげ、チーム12年ぶりのリーグ優勝に貢献した。オールスターも中継ぎ部門でファン投票1位に選ばれる。02年10月大阪ドーム最終戦登板を最後に現役引退。現在は野球解説者として活躍するほか、野球教室や講演などもしている。

シーズン中、突然襲った脳腫瘍。一時は「もう野球人生は終わった」と思った盛田だったが、手術、リハビリを経て、再びマウンドに登る。見知らぬファンからの励ましの手紙、応援してくれる家族や野球関係者。「自分ひとりで勝手に幕を降ろすわけにはいかなかった」と言う盛田は不屈の闘志でもう一度立ち上がった。


がんを宣告されても、医学の進歩に伴い職場に復帰できるケースが多くなった。その中には、がんの後遺症で体にハンディキャップを負いながら、元気にカムバックしている人も少なくない。しかし、がんになった人間がプロ野球選手の場合、そう簡単に職場復帰という訳にはいかない。

プロ野球界は何万人にひとりの高度な身体能力と研ぎ澄まされた技術を持つ人間の集団である。投手なら最低でも130キロ台のストレートを投げ、変化球を2、3種類ストライクゾーンの狙った部分に投げることができないと仕事にならない。それを考えると、盛田幸妃が脳腫瘍の手術のあと、右足首の自由が利かなくなる大きなハンデを負いながら、倫子夫人と二人三脚で一つひとつ困難を乗り越えて、再びオールスター、日本シリーズといった桧舞台のマウンドに立てたことは奇跡に近いことだ。

なぜ、盛田はこのような誰も成し得なかったことを実現できたのか。

脳腫瘍を宣告されてから、手術、リハビリを経て現役復帰を実現するまでの軌跡をたどりながら、この命題に迫ってみたい。

絶好調の影で密かに増殖していた脳腫瘍

盛田が脳腫瘍を発見されるまでの一連の流れを見ていると、プロ野球の現役選手という特殊事情が色濃く反映していることがわかる。

この年(平成10年)、盛田はトレードで10シーズン在籍したベイスターズを離れ、近鉄のユニフォームを着てマウンドに立つことになった。前の2シーズンは不本意な成績に終っていることもあって、新天地で早く結果を出したかった盛田は、この年、開幕から得意のシュートが冴えわたり、6月まで自責点0(防御率0.00)という文句のつけようのない好調ぶりだった。これだけ長い期間、自責点なしに投げ続けたケースは一番いい年の佐々木主浩や小林雅英(千葉ロッテマリーンズ)ぐらいのもので、他のリリーフ投手にはとてもできない芸当だ。

ところが、この絶好調の影で脳の中にできた腫瘍は増殖を続け、日を追うごとに大きくなっていたのだ。

盛田は言う。

「5月ぐらいから右足に震えが出ていたんです。その段階でちゃんと検査を受けて脳腫瘍だとわかっていたら、小さいうちに摘出できたはずなので、後遺症にあれほど苦しまなくてもよかったのになと思ったりもします。でも、トレードで移ったばかりで気合が入っていましたから、とてもそんなこと考えている余裕なんてなかったですね。そのあとも何度か夜寝ているときに、右足が突然震え出すことがあったんですが、大きな不安を感じることはなかった。自分では、以前膝の靭帯を切ったときに埋め込んだ人工靭帯がおかしくなっているのだろうと思っていましたから」

右足の震えがさらにひどくなり、感覚が麻痺するようになっても、盛田は膝に埋め込んだ人工靭帯に異常が生じたものと思って、はじめは東京の防衛医大で膝の検査を受けている。そこで、医師から「膝には何の異常もないが、その症状は神経かもしれないので脳の検査も受けたほうがいいですね」と言われ、初めて自分に脳腫瘍の疑いがあることを知った。

大阪に戻った盛田は球団指定の病院で、脳のMRI検査を受けた。その結果、脳の中央よりやや左の部分に直径5センチほどの大きな腫瘍があるのが発見され、ただちに摘出手術の要ありと診断された。

手術の翌日に動かなくなった右手、右足

写真:投球練習中の盛田さん

現役時代、マウンドに登るとき、ユニフォームのポケットには、5歳のときにリンパ肉腫で亡くなった弟幸司さんの写真をしのばせていた。ピンチのときポケットに手を入れ、力をもらっていたという。「弟のことがあったので、脳腫瘍のことを両親に告げるときは迷いました。家族はもちろん、応援してくれた方々に支えられ、再びマウンドに登れたことに感謝しています」

診断は、いくつかある脳腫瘍の中でも「良性」に分類される『髄膜腫』だったので、盛田は開頭手術で患部を取ってしまえば、選手生活に何ら支障がないものと思っていた。

しかし、盛田の脳の中で増殖していた腫瘍は、それほど簡単な相手ではなかった。

手術前になって盛田は主治医である横浜南共済病院の桑名信匡脳神経外科部長に呼ばれ、倫子夫人と一緒に詳しい説明を受けた。それによると、腫瘍は上矢状静脈洞という、太い静脈が運河のように集まっている場所にできているので難手術になる可能性が高いこと、この場所の腫瘍を手術すると麻痺が出ることが多いので野球がまたできるようになる確率はよくて3割であること、最悪の場合車椅子の生活になるかもしれないことなどを告げられた。

それを聞いた倫子夫人は事の重大さを瞬時に悟るが、肝心の盛田のほうは、ショックを受けはしたものの、まだ本音の部分では深刻に考えていなかった。

「医者はみんなオーバーに話すものだから、実際はそこまでひどいはずはないと思っていました。だから、手術後は一時的に脳がむくんで調子が悪くなるよ、と説明があったのも、ちゃんと聞いていなかった。ただ単純に、脳腫瘍も盲腸みたいに、手術で患部を取り出せばすぐによくなると思っていたんです。そんな感じで軽く考えていたもんだから、手術の翌日に急に右手と右足が動かなくなったときは、もうパニックで、普通の体で社会復帰できないんじゃないかと思っていました。野球のことなんか、完全に頭の中から消し飛んでいました」

このときの盛田の落ちこみ様は尋常ではなかったようで、なかば本気で「安楽死させてくれ」「死ねる薬をくれ」と何度も口走るほどだった。

右腕から繰り出す快速球とシュートで年俸9000万円のスター選手にのしあがった男にとって、その右腕が動かなくなってしまったことは、生きるすべを失うのと同じことに思えたのだろう。そんな思いが、絶望的な言葉となって出たことは想像に難くない。

髄膜腫=髄膜は脳をおおっているくも膜と硬膜の総称。この膜から発生する良性の腫瘍。全脳腫瘍の15パーセントくらい。


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